けーせらーせらー

仕事、メンタル、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

ファッションは、ダメ出しがある。しかも、その基準が変わる。

服が嫌いな人は、大抵若い頃に他人に「ダサい」というダメ出しをくらって、傷ついた記憶があるせいではないか?
そして、
「ダサい」の基準がよくわからないことに
「ダサい」の基準が変わっていくことに
「ダサい」といわれないために、高額な出費をすることに
嫌気がさしたからではないだろうか?

私もそうであった。
服を選んで買うことは苦痛でしかなく、その時間とお金が無駄であり、ストレスであった。

考えが変わったのは、「服を選ぶならこんなふうに」という本を読んだことが影響している。
この本では、当時のダサいの代名詞ともいわれていた「ユニばれ」。その「ユニクロ」のファッションを肯定的にとらえていて、当時は画期的な作品であったという記憶がある。
そして、色々なシチュエーションや体形などをテーマに、コーディネートを、”論理的”に説明し、一例としてユニクロなどのいわゆるファストファッションでの着こなしを紹介する作品である。

この作品の中の、”論理的”いうのが、ミソ。しかも、ファッション業界の専門用語は殆ど使わずに、また専門用語は解説付きで説明しており、丁寧かつ非常にわかりやすい。

「ダサい」という相手を否定する言葉は、感覚的な表現であり、言われた方としては否定されたあげくに解決策がない。言われっぱなし、けなされっぱなしである。
おしゃれな人にコーディネートしてもらったとしても、自分では理解していないので、一回限りのイベント出演でない限り、あまり意味がない。オシャレな人に従う関係ができあがってしまう。コーディネートされた側にとっては、ストレスでしかない。

しかし、論理をもって説明されれば、まして、その説明に合点がいけば、改善の仕様があるもの。オシャレとはいわないまでも、ダサいと揶揄されることはない。

というわけで、この本を読んでからというもの、服選びが楽しくなったといっても過言ではない。

そして、服嫌いの理由のもうひとつの原因は、”今年のトレンド”である。
逆に言えば、去年流行したものが、今年はダサいの代名詞になる。
これでは、服はワンシーズンしか着られない。金も時間も勿体ない。

とあるメディアにて、服を生産、販売する人の意見というのを聞いて成程と思った。曰く「大勢の人が着ているものを、また、生産販売するのは生産者、販売者として、つまらない。」と。なので、爆発的にはやった物は廃れる。彼ら、彼女らにとって、今までとは違う、今までの概念を覆すのが仕事であり、楽しみである。また、新しいものをかってもらわないといけないという営利事業としての側面もある。

理屈はわかった。

しかし、その理屈、現実のために、ダサいとして犠牲になる側としてはどうすればいいか。それは、流行り廃りに影響されない定番があるので、それを選ぶことにつきる。

あと、年齢を重ねるごとに、特に男性は、トレンドを追いかけるより、年齢に似合う服装というのを選ぶ方がダサくなくなる。むしろ、トレンドを追いかける方が若者ファッションから抜け出せていないという、ダサさがでてくる。

要は、年を重ねれば、「ダサさ」など関係なくなってくる。すると、楽しくなってくる。

さて、話はそれるが、Twitterでこんなような意見を見た。

「流行を全く気にしない人に憧れる。人の評価を気にしていない、自分に自信がある人だと思うから。」
この投稿を見た時、おしゃれな人にもこんな意見があるんだ、と驚いた。
「ダサい」を作り出して、マウント取り合戦をするのが趣味だという偏見をもっていた。むしろ巻き込まれている人もいるかもしれない。

結局、他人の評価、世の中の価値観は移り変わる、というのを体現しているのがファッション。
過度な「ダサい」という指摘自体が「ダサくなる」と思っている。

マナー講師に「失礼クリエイター」と蔑称が作られたように、ファッションの専門家もあまりにひどいと「ダサいクリエイター」という蔑称がつくられるかもしれない。

(ちなみに、コーディネートする際に、相手を「初心者」と表現する自称プロは、大概だと思う。武道を習っているわけでも、免許皆伝しているわけでもあるまい。まあ、適当な表現がないのかも知れない。)

尚、汚い、臭い、しわしわ、着崩れは、それより前の段階のことだと思っているので、割愛。

以上、昨日、ユニクロで、子供が「服を選ぶの面倒くさい!」と親に駄々をこねているのを見て記事にした次第です。