巧遅は拙速に如かず

仕事、メンタル、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

オリンピック否定派の私見

パリオリンピックが真っ只中のようだ。ようだ、と書いたのは、私がオリンピックを見ていないから、ニュースで知る程度の知識だから。

勘違いされると困るが、私はスポーツをするのが好きだ。スポーツ観戦も好きだ。欧州サッカーが好きだ。”日本の”プロ野球が好きだ。いつか北海道に行ってエスコンフィールドで生で観戦したい、と思っている。

ただし私はオリンピックは好きではない。出場したい人が出場すればいいが、テレビで放送しなくてもよいと思っている。ワイドショーや大谷選手”だけ”おっかえているよりまし、というぐらいだ。

先日、テレビで某教授がオリンピックを見ていないことを公言していた。マスコミ総出で放送し、盛り上げようとするなかでのテレビでこの発言をすることに、否定する理由は違えども私は信念をもって対応するこの方に敬意を表したい。そして、今回の記事を書くきっかけとなった。

ここからはそんなオリンピック否定派の私見。オリンピックを楽しんでいる人を否定するつもりはない。肯定派の人には興覚めな記事なので、一旦区切る。

 

繰り返しになるが、私はオリンピックは好きではない。言い直そう。好きだったが、嫌いになった。開催しなくてもいいと思っているし、税金を使って出場しなくてもいいと思っているし、誰が金メダルをとろうが、とらまいが、私には「どうでもいい。」

先に念押ししておくが、出場する選手や審判を中傷するつもりは全くない。出場選手のこれまでの研鑽を否定するつもりも全くない。よい結果が出た方は「よかったね」と思うし、望んだ結果が得られなかった方は「残念だったね」と思う。それ以上でも、それ以下でもない。

ただし、出場選手全員を盲目的に称賛するつもりは全くない。日本代表として重責をもっているのだからと、過度に重荷を背負わすような気持ちも全くない。自分達日本国民の代表だと異常に持ち上げたりする気持ちも全くない。

彼ら彼女らは、自分のやりたいこと、成し遂げたいことをするために、同じ希望をもつ選手の中から選考を経てパリで行われる世界大会に出場してやりたいこと、成し遂げたいことをしているだけ。それだけである。

こうオリンピックに対し、否定的な冷めた目でみるようになったのは、3年前の東京オリンピックのいざこざからである。

まずは電通出身者を中心とした談合事件、国立競技場、シンボルマークの問題、開会式の演出者辞退のいざこざ。”レガシー”、”平和の祭典”という名のもとに金の亡者どもがうごめいていることは知っていたし、特権階級となったIOCの連中、特に会長が外出禁止の中で銀座を観光していることからもそういうヤツらもいるとは思っていた。だが日本人でもオリンピックに群がる同じ輩、そしてその特権をお仲間達で分け合う姿を見せつけられた。これほどまで酷いとは思わなかった。

もうオリンピックは日本でやらなくてもよいと思っている。

上記は、主催者側の人間の問題ではあるが、選手側に対してもいい印象を持っていない。それはコロナ禍の中での無観客という条件付きでの強硬開催と、それに関する一部の選手とコメンテータの発言に嫌悪感を抱いたからだ。

以下、その発言をピックアップする。何分3年前の話なので記憶が曖昧であるが、そこはご容赦いただきたい。記憶が曖昧であるため、発言者の名前はあえて表示しない。

 

 

「クソなピアノの発表会なんかどうでもいい。それを一緒にするアホな国民感情に今年は選挙があるからのらざるを得ない」

子供の運動会や発表会が無観客なのに五輪だけ観客を入れたら不公平感が出てしまうとの意見に対する某出版業や動画サイトを運営する代表取締役の発言である。

はっきりいって、自分の子どもの運動会や発表会の方が、赤の他人の”運動会”よりよっぽど重要である。その感情を”クソ”呼ばわりするその感性に反吐がでる。しかし、こんな発言をする輩が、3年たったいまでもマスコミの中枢にいるということは、彼はマスコミ、スポンサーを代表して、下級国民に対して発言したのに過ぎないということだ。

こんなマスゴミどもが放送する赤の他人のオリンピックという名の”運動会”はクソのようにどうでもいい。もう放送するのをやめたらどうか。

「”命がけで戦っている”アスリートとしては有観客でやりたい。誰のためのオリンピックなのか」

これはサッカー選手のコメントである。実際はもっと長い説明で、色々な事情や多方面にわたる人間に対して配慮し、医療従事者に感謝をしたうえ、数々の断りを入れたうえでの発言である。よって、上記の某出版社の代表と比較するのは間違っているとは思っている。

だが、この時は色々なイベントが中止に追い込まれていたし、開催できても殆ど無観客であったのだ。人との接触がご法度でせっかくの夏休みなのに出かけることもできない状況であったのだ。医療従事者は家族と離れ離れで生活をし、コロナをうつさないよう、また文字通り”命がけ”で戦っていたのだ。

開催するのも賛否のあった非常事態だったのだ。たしか非常事態宣言がでてたような時期ではなかったか。あのタイミングで開催は中止にしてもおかしくないぐらいの状態だったし、現に時の総理大臣はその責任もあり辞職に追い込まれる形になったはずだ。総理大臣ですらその職を問われるほど、判断が難しい状態だったのだ。

それをアスリートは”命がけ”でプレーしているのだから、観客アリにすべし、と発言すること自体、そう思うこと自体、当時の私には理解できなかった。医療従事者の”命がけ”とはそのレベルが違う。同じ言葉を使ってほしくない。この時は本当に他人に移して感染すれば人の命を奪ってしまう可能性があったのだ。

無観客での開催は、そんな難しい中での決定である。4年に1度の目標を断念させられることも、選手生命を絶たれたわけでも、スポーツ自体を禁じたわけではない。それを「観客アリで」というのは、そしてその理由を自分たち”アスリート”は”命がけ”で戦っているので、というのはどう取り繕っても、自分たちの上流意識、その辺の一般人のイベントと自分たちの試合とは位置づけが違うという意識が垣間見える。客に対する安全配慮もない。

誰のためのオリンピック?自分がやりたいことをやるためだろう。自分が他の人間と違うと思いあがるな。勝手にお仲間たちだけでやってろ。感染しても医療機関にかからないと約束する人だけ会場にいれてやってろ。

「努力は必ず報われる」

とある水泳選手である。この発言を非難するのは、心が狭いと思われるだろう。若者のとっさの発言を非難するのはどうかとも思う。だが、”必ず”と発言すること自体に賛同できない。彼女が努力したことを否定しない。努力した結果がでたことを否定しない。それを喜んだことを否定しない。

ただ、”必ず報われる”はない。この発言だと、代表に選ばれなかった選手は”努力していない”ということになる。先ほどの意趣返しだが、ほとんどの人がそれこそ”命がけ”で努力したなかで、あなたが選考レースで勝った。それだけだ。

まとめ

思いつく限り以上である。要するに、オリンピックに対する主催者、スポンサー、選手の思い上がった発言に嫌悪感が残り、オリンピック自体に興ざめした、というわけだ。

札幌オリンピックが立候補断念してよかったと私は思っている。あれだけの汚職事件を行った後に、開催しようとする意識がよくわからない。市民の理解が得られない、と市民の責任にするかのような発言をする意味が分からない。

もうオリンピックは、国民から徴収した税金をかけて、国民の生活は制限する中で、”アスリート”様だけが、他の人間と区別されて自由に動いて、主催者とスポンサーだけが、観戦できて飲酒もできる、そんな特権階級の存在がいることがわかったイベントであることは誰もが理解した。それに対して何の怒りを覚えない、というのは私は理解できない。

また今のオリンピックでも一般人は、出場選手に対してリスペクトのみしか表明できないという考えも理解できない。SNSでの誹謗中傷が問題になっているというが、誹謗中傷のレベルがちょっと違うのではないか。殺害予告とか脅迫を受けている場合と一緒くたにしてはいけない。

SNSは一般人が意見を言える場だ。そこにはリスペクトだけでなく、否定的な発言もあるだろう。競技場では、ひいきチームのふがいないプレーにはブーイングを観客がするだろう。それと同レベルの発言も全て”誹謗中傷”というカテゴリーにいれてしまうのならば、オリンピックはもう、誰も出場選手否定的な意見を言うことを許さない独裁国家と同じであろう。否定すれば全員逮捕できるよう法律を変える、とか発言する政治家もいる始末、もはやオリンピック中は、戦前の特高警察が復活かのようだ。

勿論、殺害予告や、脅迫や人間として否定するような発言を容認しているわけではない。ただそれは選手に限らず、”誰に対して”でも、人種、性別、年齢、容姿でもそうだ。選手を神格化し、SNSでの発言をカテゴリー化、一般化して、賞賛以外の発言を認めないということに対しては賛同しない、という意味だ。