とあるテレビ番組の街頭インタビューで50代の男性のコメント。
「パワハラのせいで委縮している。部下との間で心が通い合えなくなった。」
私はこの発言に疑問を持っている。テレビ慣れしていない一般人だと上手く言語化できない場合があるので、この発言をもってこの男性を非難する気はない。だが、このコメントはない。なぜなら、この「心が通わない」という反対語、「心を通わす」が、パワハラ、セクハラの加害者が被害を訴えられた時にいう反論の典型的な返しだからだ。
「心を通わす」という大義名分のもと、パワハラセクハラは行われてきた。お互いの距離を縮めるため、スキンシップのため相手の身体に接触し、言い返せない部下に対し受け入れられたと勘違いし一方的な主張を続け、キツイ言葉を相手のためを思ってと自己弁護し、無理難題を成長の機会を与えるためといい、自分の意に反した行動に対する叱責をビジネスマナーやお客への対応を間違わないための指導と話をすり替える。
「心を通わす」ことなど、パワハラ・セクハラ・コンプライアンスを理由にできなくなったとほざいている人間は、パワハラ前は「心を通わす」ことができたと思っているのか?単なる優位な地位を利用して、相手が自分に逆らえないことを利用していたにすぎないことが明らかになったと思えないのか?勘違いも甚だしい。
こんな考えがまかり通ってきたのを辞めさすためには、パワハラ・セクハラ・コンプライアンスは必要なことだったと思う。
パワハラがなかったころも、上司の指導および組織や個人の目標が伝わらなかっていなかった。伝わっていたと認識していたのならば、それは単に恐怖から従っていたにすぎない。恐怖を感じない、負けん気の強い人間にはパワハラ前から心は通じていない。
つまりパワハラ前から上司と部下の間に「心は通じていない」。そもそも、上司と部下と言う間で「心が通じている」ケースが稀なのだ。
上司であるあなたは何がしたいのか?部下の何が問題なのか?どうすれば問題は解決するのか?言語化できていないから、手本がないから問題になる。パワハラ前はその言語化できていないことを恐怖心で支配していただけに過ぎない。
そして、もともと威圧感のある、威厳のある人間の発言はそんな恐怖心をあえて喚起しなくても普通に話しているだけで相手が勝手に真剣さや緊張感を感じる。
つまりパワハラ以前に自分にその能力がないといっているようなものなのだ。
いうことが伝わらない、指示に従わない人間はどうしてもいる。言葉にしても分かり合えない価値観も評価基準も違う人間はいる。人間は全員とは分かり合えない。それをわかりあえるような、組織として一致団結できると思う方が間違いなのだ。方針があわなければ、パワハラによって強制的に指示に従させなくてもよい。業務命令に反する行為として粛々と手続きをとり、チームから外せばよい。腐ったミカンはパワハラをしたからといって普通のミカンにはならない。そこから外すのが最良だ。
「心が通わない」と思うのならば、どこかで自分のいいたいことが言語化できていないことを内省してみたほうがいい。黙っていても忖度させられるような威圧感や成果をあげてみればよい。パワハラをしないということは、部下の顔色を窺うという意味ではない。
今でも地方の首長のパワハラ問題は続いている。浸透していないし、パワハラと指導の線引きもできていないのが現状だろう。私は暫くの間はパワハラで委縮させておくのも期間があってよいと思っている。