巧遅は拙速に如かず

仕事、自己啓発、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

「事実」を言っても、誰かを傷つけ、批判されるのはなぜか?

さて、まずは前提として、下記の事柄を抑えておいてほしい。

人は、他の人がいった些細な「事実」で傷つく。

所謂「誹謗中傷」ではない。挑発ではない。侮辱しではない。見下したわけではない。

見たまま、聞いたまま、つまり発言した本人にとってみたら単なる「事実」を言っただけである。そして、事実をただその時口にだしただけなので、発言者は気にも留めていない。

ただ、それを聞いた人は、「自分(達)を侮辱した。」と認識する場合がある。自分の自尊心をひどく傷つける発言だと認識する場合がある。

わかりやすく、ひとつ具体例をあげてみる。

2人で道を歩いていたとする。1人の人間が目に入った家を見て「あの家は大きいね。」と言った。発言者にとっては単なる事実。発言者からすれば、たわいもない記憶にも残らない会話のなかのひとつの発言。

ただ、それを聞いた人は「私の家が小さいことをバカにしているのか、あの家の人は収入が多いからあの大きな家に住めるけど、あなたは収入が少ないから、小さい家にしか住めない、と馬鹿にしているのか」と認識する場合がある。

こんな風に、「事実」を侮辱する発言と認識する場合がある、ということである。

ここで言いたいのは、発言した方が相手の気持ちを察していないから悪い、または、聞いた方が自意識過剰で悪い、と言いたいわけではない。

ひとつの「事実」でも人によって、認識が異なる、と言いたいわけである。

この原因はおそらく、聞き手側の”家”に関する「自己評価」が低いからであろう。家について心の中で不満をもっており、誰かに自分の家を笑われていないか、と心の中で警戒しているから、他人の些細な事実や感想を侮辱と結びつける。聞き手が家に「とらわれ」があるから侮辱されたと認識してしまう。

また、その聞いたタイミングで「自己評価」全般が下がっている場合も該当する。「自己評価」というのは、その時の気分、体調、寝不足、いいことや悪いことがあったり、成功したり失敗したりすると変動するものである。だから、いうタイミングが違えば、同じ内容でも傷ついたり、傷つかなかったりする。

人間の感情というのは、かくもうつろいやすい、ということがいいたい。

よって、誹謗中傷というのは、そうそうなくならない。誹謗中傷は大抵は、侮辱されたから侮辱し返した、という怒りを含んだ”仕返し”でもある。ただ、その最初の「侮辱」というのは受け取り手次第でもあるから、SNSという多くの人が見ている媒体であれば、それを見た誰かは侮辱された、と認識しても、別におかしくない。

だから、もし自分がとある事実を聞いて、侮辱されたと思ったら、「相手は単なる事実や感想を述べただけ」「相手にとっては単なる感想で1時間後には忘れているような単なる会話」に過ぎない」「自分は今自己評価が下がっているだけ」と思うことができれば、時間が経てば気は休まっていく。

また、もし自分の発言でなにか、相手から侮辱されたと発言されて、そんなつもりは全くないし、記憶にもないなら「自分が相手の自尊心を傷つけるような発言をしたのだろうな」と思えばいい。

事実も感情もそんなものである。

さて、聞いた人がなぜ傷つくか、というと、「他人から責められている気がする」からであり、それは「他人から責められることに怯えている」からであろう。これを自己評価が低いから、自己肯定感が高い人は聞き流すという結論ですます人もいるが、自己評価、自己肯定感という言葉だけではわかりづらいと私は思っている。自己肯定感という言葉は、解釈の余地がありすぎる単語である。「ヤバい」といっているのと同じぐらい、聞き取り手の解釈が変わり、真意が伝わらない。

話がそれたので元に戻すが、そういう風な環境で育ってきて、そういう風に他人と違うことをすることを咎められる経験をしてきて、これまでの経験から、他人を警戒している状態なのだと思う。

逆に警戒しない人は、自己評価が高いのではなく、自己肯定感が自然と高いわけでもない。

過去に周りと違う行動をしても咎められなかった、また咎められても放っておいても人生に悪影響が生じなかった、しょっちゅう他人から咎められて、もう気にしなくなる状態になった、その事実が影響している。

自己啓発の本では「他人の評価を気にしない」というテーマの本がよく売られている。著者が、精神科医脳科学者、宗教家という場合もあるが、世間で批判されても気にしている様子のない著名人も著者に加わってくる。単なるエッセイの場合もある。

これは裏を返せば、「他人の評価に悩む」人がいつの時代にもいるということであり、もう紀元前から宗教家や哲学者などが答えをだしているが、現代でもやはり「他人の評価が気になってしまう」「他人に悪く言われると、どうしても傷ついてしまう」、「他人の評価を無視して社会人として生きていくのは無理」で、なにか解決策がないか探すからであろう。

それは、色々な手法で色々な人が考案するダイエット本、英会話本と似ている。ダイエットは、結局は食事の摂取を運動などでの消費が上回ればよいのだが…。

私は、それこそ”悟り”でも開かない限りは「他人の評価を”全く”気にしない」というのは無理だと思う。

著名人の場合は、”気にしない”と主張している人がいるが、あれはそういう”キャラ”を演じている可能性が99%である。

誰でも、気にすること、気にしないことはある。”気にしない”のは程度の差はあるだろうが、何を言われても、いついかなる時でも、どんな時でも、他人に何を言われても、何も気にしない人は99%いないと思う。1%は感情がないか、悟りを開いた人だろう。

誰でも、苦手なこと、失敗したこと、他人よりも劣る結果になっていることは必ずあり、それについて気にするものである。

また繰り返しになるが、体調不良でもダメージを受けやすい時もある。

完璧な人間などいない。むしろ完璧に気にしないことを目指せば、絶対に気にする。

そして、SNSの投稿をみていれば、どこかで誰かが自分が今「気にしている」ことについて文句を言っている人を見つけるものである。それは、わざわざ自ら傷つきに行っているようなものである。

以上、加藤諦三氏の本のひとつのテーマ「なぜ「人はささいな事実にも傷つくのか」というタイトルから導入部分を引用させてもらった。

 

話を変えて、SNSの話。

SNSではこの投稿者が見たとある「事実」の投稿を他のことや全般、自分のことに対する批判や侮辱と捉えてしまうから、炎上するのだろう。

炎上狙いで、反論されたら「アンチ」「誹謗中傷」「被害者」と抗弁するような、自分にダメージがない人達をターゲットを選んでいる輩は人間のクズだから論外なので除外して、投稿者が文句を言いたい人とは全く別の人(達)が、自分がバカにされたと思って炎上する場合もある。普段の投稿を見ている数は少ないのに、急にバズる人は、おそらく、投稿者が全く意図しない話が、想定していない人に読まれて、そう解釈するのか、という解釈をされてしまうからであろう。

「事実」でさえそうなのだから、「感想」なんてさらに輪をかけるだろう。SNSは投稿するほうも読むほうも、そんなものだと思った方がいい。

ここでも具体例をあげてみよう。

私は普段軽自動車に乗っている。これは、今住んでいる家から大きな道に出る際に極端に狭い道があって、擦ったり、対向する車がくると動けなくなって会社に遅刻するから、無職の時に支出を減らしたくて軽自動車を買ったら、使い勝手がよくてそのまま買い直してないなどの理由があるが、他人から見たらそんな理由はどうでもいい。

他人から見たら、いい年したおっさんが軽自動車に乗っている、という事実である。

「いい年した男が軽自動車に乗っているのは、男としてなにか問題をかかえている」という人格を否定する発言をSNSで見たりするとカッときたりする。

だがよくよく思い出すと、自分の車を見て実際にそのような発言をする人にはあったことがない。うちの家の道路事情、私の無職時代か病気時代を知っているからでもあるし、そもそも直接そんなことをいう人は喧嘩を売る以外にないだろう。勿論、心の中でどう思っているかは知らないが、心の中で誰がどう思っているかなんて、妄想でしかない。

だから、上記の発言はあくまで一般的な話で、都会のステータスの高い人達からしたら、自分のステータスを図られる機会が多くてマウントを取られないためにも、乗っている車、家、服、時計などの装飾品を気にしているのかもしれないし、その発言者の中ではとある誰かを想定して、その人間に文句をいいたいのだが、名前をださずにそう発言したのかもしれない。

よって、その発言に反論しても、相手から見たら「あんた誰?何のこと?」と言われるのがオチだろう。だから、そんな話はスルーすればよい。

ただ、やはり自分の中では、本当は軽自動車ではなく、ベンツとかレクサスという高級車までとはいかないまでも、風に揺れない、高速で速度を出してもふらつかないような車が欲しい、というのは意識としてあって、車に関する自己評価は低く、不満と抑圧もあるので、私の自尊心が傷ついたのだろう。

自分が得意なこと、過去の成果を聞いてもいないのに話をする人は、この話の逆なので、「自分の話を聞いて褒めて、承認してほしい、自分の自尊心を満たしてほしい」と思っているので、無視すればいいと思う。

 

最後に。

繰り返しになるが、単なる事実を述べているのに、話し相手がなぜか怒りだしたときは、自分の発言のなにかで相手の自尊心が傷ついた、相手の気にしていることに触れた、ということである。

他人の自尊心など他人にはわからないし、相手の自尊心を傷つけないように配慮しすぎたら何も発言できない。

かといって「プライドが傷ついっちゃった?」とか煽る必要もない。

とはいっても、YouTubeで「クソコメ反論」という動画をあげている人がいる。

あれは、他人から想像以上に批判されたことで、投稿者の自尊心が傷ついたから、その自尊心を回復するための報復である。

「間違った認識を正すため」とか「閲覧数が増えた投稿だったため、反論動画も閲覧数が増えることが想定でき、収益に繋がるから」とか大義名分とか経済的理由をかがげていたりするが、結局のところ、「自分が傷ついたから」からである。

発信者の投稿を見て、批判したりする人、正義を振りかざす人と同じ穴のムジナである。要するに、どちらも「他人の発言で自分が傷ついた」というのが本音である。