巧遅は拙速に如かず

仕事、自己啓発、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

「不安」と「ストレス」…定義を理解し、対応しよう。

「不安」と「ストレス」について、今回は記事にしたい。

不安

「不安」と一言で言っても、その中身によって2つに分けられる。

客観的不安

客観的不安とは「生命の危機」に対応する不安。

これは太古より人間に備わった不安。

命を危険にさらす状況から逃れるために、脳が緊急に指令をだすもの。

この「不安」を感じなければ、人間は生命の危機状況に接した時に”逃走する”という判断を下せず、命を落としかねない。だから脳は「不安」という形で指令をだす。

この指令は”緊急”指令なので、誤作動の場合もあるが、生命の維持を最優先するためにはやむを得ない。

「客観的不安」は、生存本能として必要不可欠なものである。

神経症的不安

自己啓発、心理学や人生の悩みにおいて「不安」が強いという場合は、上記の「客観的不安」というのは異なる。生命維持のためではなく、過去の記憶から、「悪いことが起こるのではないか?」という「予期不安」である。

その不安はおよそ客観的ではない。理屈に合わないことであるはずなのに、湧き出てくる不安。この不安を「神経症的不安」と呼ぶ。

皮肉なもので、そこから逃れようとすればするほど、逃れた経験に応じて「安全地帯」はどんどん小さくなり、「予期不安」はどんどん強くなる。

だからこそ、この「安全地帯」を広げて、過度の「予期不安」を取り除くためには、不安を感じることに、”あえて”チャレンジする必要があるのだ。

客観的不安と神経症的不安を混同してはならない

「客観的不安」と「神経症的不安」は異なる。この2つを混同したら「不安」という問題を解決できない。

そもそもすべての不安を取り除くことはできない。「客観的不安」を取り除くことは生命の維持にリスクをもたらす。取り除くべきは、その理屈にあわない「神経症的不安」なのだ。

神経症的不安を取り除くには

神経症的不安」は、言い換えれば「見捨てられる不安」。

他人や周りの人間から失望されたくない、
人の期待に背きたくない、
仲間外れにされたくない、
自分の価値を脅かされたくない、

そういう思いからくる不安である。その不安から逃れて安心感を得ようとする。

そのために以下の行動をとる。

  • 従順、何事にも遠慮する
  • 仕事熱心、真面目、強い人間、優れている人間であるようにする
  • 無理して明るく振る舞う

これもまた皮肉なもので、上記の対応を続けている限り「神経症的不安」は永遠に取り除けない。永遠に安心感を得ることは不可能であり、他人はいつか自分を見捨てるからである。

この神経症的不安を取り除くにはどうしたらいいか?

答えは単純で、上記に書いた行動の逆の行動をすればいい。つまり、他人から見捨てられることを受け入れればいい。具体的には、以下の4つの行動をとる。

  • 自己主張する 
  • 真面目にふるまわない
  • 孤独になることを選ぶ
  • 事実を、運命を受け入れる 

ストレス

ストレスも実は本来の意味と、社会一般的に広がって使われている意味とは違うのはご存じだろうか?

ストレスを感じること自体は悪くない。

「ストレス」状態にあることは、悪いわけではない。ストレスを感じることは悪くない。それが今のトレンド。

「ストレス」状態にいることが悪いわけではなく、「ストレス」状態に”長く”いることが良くないのである。だから、長期間ストレス状態にいることは避けるべきだと言われている。

「ストレス」という言葉の定義

「ストレス」とは、”新しいことをするために脳が準備する”ことをいう。

脳がフル稼働するので、当然疲れる。だが未知なる分野にチャレンジするには「ストレス」はつきもの、と解釈される。

一般的には、「ストレス」とは精神的負荷を感じることをいう。プレッシャーを感じたり、不安になったり、緊張したりすることを指す。だが、未知なる分野に挑戦するのに、緊張したり、不安になったりするのは当たり前。ストレスを感じないということは、未知なるものに対して心が準備していない、という意味だ。だからストレスを感じないことは、無謀ともいえ、失敗する確率が上がる。だから「ストレス」を感じる、精神的に負荷がかかること自体は悪くないのだ。

過度の心身の負担を招く考え方とは

一方で、過度な心身の負担を招き、心身の不調を引き起こす「ストレス」はこの意味では使われていない。

ではどんな意味で使われているかというと、

「〇〇しなければならない」という状態に追い込まれている状態のことをいう。

この「〇〇しなればならない」という状態は、仕事や家庭、学校において指導者や周りの人間から言われている場合も多々ある。

だが、正確には違う。他人が私に対して「〇〇しなければならない」と思っていると、私が勝手に思い込むことにある。

その心理は、「〇〇という結果にならなければどうしよう…」という結果重視で、結果がすべてで、結果に過敏になり、失敗を恐れる考えになる。

「こうできなければ失敗だ」と失敗の基準を自ら勝手に作りあげることで、自分を精神的に追い込んでしまうことをいう。

解決方法は実はシンプル

解決方法は実はシンプルである。つまり

「人の期待に答えなければいい。」

「失敗した時は、失敗したな、と思えばいい。」

そもそも、

他人の期待になぜこたえなければならないのか?
他人の期待にこたえなければ、もし失敗したら、生命の危機に瀕する状態なのか?

と自分に問い直してみるといい。

実は、その「人の期待に応えられなかった」としても、「失敗したとしても」すぐに生命を失うことは、現代ではそういった場面は殆どない。戦地や事故、天災ぐらいだろうか?

そりゃ、学校でいい成績をあげなければ、大きな失敗をしたら、次のいい学校、いい職場にステップアップできないし、会社でいい成績と評価を受けなければ、給料も上がらないし、出世もしないし、下手をしたら、会社をクビになってしまうかもしれない。そうなると生活が苦しくなるかもしれない。

だが、今の仕事を失ったら、生命の危機かというとそうではない。周りから悪く言われるかもしれないが、死にはしない。

そもそも、自分が「人の期待にこたえなければならない」と思い込んでいる理由は、「失望され、見下されること、仲間外れにされること」を恐れているからである。

だから一人になってもいい、見下されてもいい、嫌われてもいい、と「覚悟を決めれば」いいわけである。

意外と「覚悟を決めた人間に対しては、他人は向かってこない」ものである。

引用先

以上、加藤諦三氏著「不安のしずめ方」から、一部引用させてもらった。