巧遅は拙速に如かず

仕事、自己啓発、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

どちらが幸せ?

つい先日、約4年前にわが社を退職したAさんが会社を訪ねてきた。といっても私に会いに来たわけではなく、他の部署のBさんを訪ねてきたのであるが、その打ち合わせが終わった後に、Bさんに私のことが話題になったようで、お会いすることになった。

Aさんに今何をされているのか尋ねたところ、どうやら、独立開業したらしい。

まだ商売として軌道には乗っていないようではあるが、その目は輝いていた。自分が何をしたくてその事業を立ち上げたか、将来のビジョンを含めて、熱意をもって話してくれた。

4年前に私とAさんと同じ部署にいた、今は別の部署にいるCさんもAさんに呼ばれていたが、ぎりぎりまで現れずに、現れてもCさんはかなり冷たい対応をしていた。

Aさんが去った後、私はCさんに話しかけた。「Aさんのこと、忘れちゃった?」

それぐらい、そっけない対応だったから。後、皆4年前はマスクをしていたので、マスクのない顔を見ても思い出せないのも仕方がないと思ったからだ。

すると、Cさんから回答があった。それは意外なものだった。

「Aさんって、わが社にいた時、全く仕事ができなかった人でしょ。退職してから彼に3回も尋ねてこられたんだけども、正直、迷惑なのよね。」

そういわれて私も思い出した。Aさんは実はわが社を短期間で辞めた人であった。「雇用のミスマッチ」とはまさにこの人を指すのだと思うぐらい、適性の全くない仕事ぶりであったが、Aさんも自覚していたようで、短期間で去っていったのだ。

さて話は戻るが、さきほど15分ほど話したときに、私ははじめてAさんがわが社を受けた志望動機とAさんのわが社での志望職種を聞くことができた。それはAさんがわが社でしていた仕事とは全く違うものであった。当時はコロナ禍が猛威を振るっていた頃。Aさんはやりたくもない仕事をさせられる羽目になったので、去っていった、ということを初めて知った。

Aさんは仕事はできなかったが、悪口を周りに言いまくる人ではなかった。ちょっと前にも書いたが、採用されないのは「他責思考」の人間で、「他責思考」の人間とはすなわち、悪口をいう人間である。そういった意味ではAさんは「他責思考」ではない。だが「他責思考」でなくとも、仕事ができない事実は変わらないが、採用はされるのが今の転職市場である。

私は今Cさんとは別の部署にいて、Aさんと会うのはAさんが退職して以来だったので、なつかしさのほうが大きかったが、Cさんから見たら、この4年間に3度も訪問されて嫌で嫌で仕方がないらしい。私から見たら同姓で同僚の1人だったが、Cさんは異性でかつ彼の指導係だった。そういえば、Aさんの出来の悪さで頭を抱えていたのを思い出した。

Aさんは悪口を言う人間でもなければ、無責任な人間でもない。かなり前に退職願いを出し、引継ぎをきちんとして退職していった。

それでも、後で訪ねてきても、嫌な顔をされるものだ。ビジネスの礼儀として、またわが社のBさんを尋ねてきた以上、Bさんの顔に泥を塗るわけにはいかないので、無視できなかったが、Cさんの会いたくないのが全身からあふれ出ていた。

ここからいえることがひとつある。

よく、退職する時は、後を濁さずに退職したほうがいい、といわれている。まさにそれは当てはまるわけで、後を濁さずに退職した結果、Bさんと仕事ができているわけだ。退職代行など使って、去った会社とは仕事ができない。手続きをして退職したほうがいいというのは、当たっている。

ただ、仕事に結びつけるかどうか、といわれると、それはまた別問題である。Cさんが言う通り、Aさんはわが社では全く仕事ができなかった。だからAさんと仕事がしたいか、といわれると仕事を任せられるほど信用ができない。となると、仕事の繋がりは最低限のビジネスライク程度。深い付き合いにはならない。

となると、全く出来の悪かった会社との付き合いというのは殆ど期待できないので、長く居続けたり、耐え忍んでまで退職手続きをする必要はない、ともいえる。

私も、Cさんとの会話の後、Aさんの仕事ぶりを思い出していた。うん、あの仕事ぶりだと仕事を一緒にしようとは思えない。

そういえば退職した後に、わが社を訪ねてくる人は結構いる。会社自体は幅広い産業に手を広げているので、付き合いがあってもおかしくない。だからこそ、あまり喧嘩別れしてまで退職することはお勧めしない。

ただし、全く仕事ができなかった場合は、信用されないし、その事実は社員間で共有されて広まるもので、あわない会社、成果があがらない会社だったら長居してもその後役立つことはほぼない。ただ、訪ねて行って塩を投げられたり、出禁になったりすると、次の職場にも悪影響を及ぼすから、次の職場のために最低限の礼儀作法で退職するぐらいで、とっとと去るのがちょうどいい。

 

という上記の意見で締めようと思っていたのが約1週間前のことだ。だが、その後私はもやもやしている。

その理由というのが今日分かった。長い前振りであったが、それがわかったから今日こうやってブログの記事にして記録に残そうとしているわけだ。

そのもやもやの理由というのは、私はAさんを羨ましく思っているからだ。羨ましく思う理由は、そう最初に書いてある。Aさんは、自分がやりたいことをするための仕事を始めていて、その理由を熱く語っていた。それが羨ましく、また我が身を振り返って、いら立っているわけである。

私はこの5年間、どう過ごしていたか。自分でいうのもカッコ悪い話だが、私は基本できない仕事、というのに巡り合ったことは殆どない。どんな仕事でもある程度はできる。あいつは仕事ができない、と揶揄されるような仕事ぶりは、新卒の数年間ぐらいで、後は何でもそつなくこなすことができる。

いっては何だが、Aさんよりはるかに仕事はできているし、今でもAさんの始めた仕事でも多分私のほうができるという自信もある。

だからこそ、Aさんが羨ましく、自分にいら立つ。

その理由は簡単である。

Aさんは行動した。

私は行動していない。

私は、心では嫌いな仕事でも、ある程度はできてしまうが、本音では無職になることが怖く、変化が怖く、転職活動でまた不採用になるのが怖く、ましてや独立開業するほどの度胸がない。

端的に言えば、精神的に弱い。だから行動できない。精神的に弱いのを隠すために、上記で行動できない言い訳をして行動していない。

また私だったら、できなかった会社、半年で辞めた会社を仕事とはいえ尋ねるのは嫌である。だが、Aさんは訪ねてきている。行動している。Cさんに冷たくあしらわれても自分のやりたいことのためには、他人の顔色など気にしていない。

その事実に気づいて、もやもやしている、ということだ。

長話ですまない。だが、仕事がある程度できるが、給料欲しさに嫌な仕事に居座る人間、できない仕事も多いが、自分がやりたいことをするために行動できる人間、どちらが幸せだろうか?どちらが死ぬ前に自分の人生に満足できるだろうか?

答えは明白である。だからもやもやしているわけである。