巧遅は拙速に如かず

仕事、自己啓発、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

妄言「SNSで素人は発信するな」について 怒った理由を自分に問いかけてみる

今週、SNSでとてつもなく腹立たしい投稿を目にした。

チョコレートプラネットという名前のお笑いコンビの松尾氏の公式YouTubeにおいての発言だ。

以下、私個人の怒りというガスを抜くための、自分の感情を理解、分析するための記事というより日記。

一旦改行する。

 

さて、この男、なんでも「SNSは素人は発信するな。芸能人とアスリートだけが発信すればいい。素人は黙って見とけ。ブログでもやっておけ。」という発言をした、”ようだ”。

「ようだ」と書いたのは、SNSでの他の人の投稿、または切り抜き動画でしかその発言を確認できなかったからで、私がその発言を知った時には、その問題となった動画はすでに削除済であったからだ。

だから、確定情報はわからない。一部だけ切り抜いた動画や文字だけでは、発言の趣旨も経緯も、事情もわからない。発言の趣旨をつかみ損ねる。切り取った部分だけで判断することは良くない。

そして、このお笑いコンビのことを私は知らない。名前を初めて聞いた。ネットで調べると、テレビによくでているかなり有名な方々らしい。コンビ名を知らなかっただけでテレビで出演しているのを見たことはあるかもしれない。よって、私はこの投稿をもって初めてその名前を認知したぐらいだ。

つまりは私にとっては、名前も知らない、自称芸能人の発言、私見である。

そして、どうやら、その発言の前提には、同じお笑い職の人のSNSが他人に乗っ取られて、犯人が逮捕されたことが起因だそうだ。その乗っ取りと、乗っ取られたSNSを拡散した「素人」に対する、芸能人の感情的な意見である。

上記の理屈と背景を知っていれば、第三者の赤の他人が彼に対して怒る「合理性」はない。

だが、私はこの発言に非常に怒りを覚えた。SNSで汚い言葉で罵りたい気持ちを抑えるのに苦労した。我慢していたら、怒りで睡眠中でも記憶から消えなかった。数日間は頭に残っていた。

そして昨日、ここのコンビはYouTube内の自分のチャンネルでこの発言を釈明し、謝罪したようだ。そして、動画内にて何の意味なのか知らないが、髪を切りコンビで坊主になったようだ。正直、視聴者として反応に困る対応だ。頭を丸める行為まで誰かが求めていたのだろうか?意味がわからない。

ただ私はこの男の顔を金輪際見たくない。声も聴きたくない。このままSNSから消えてもらいたい。いや、ブロックして消そう。怒りに任せた発言だと重々承知の上だが、そう思うほど、この男に対して怒りが今は消えそうにない。

このコンビでは、今は笑えない。笑いではなく、怒りしかないから。

 

さて、前置きはここまでで、ここからが本題である。

なぜ私はここまで激怒したのだろうかと自問自答している。

正直、イラつく、ムカつくSNSの投稿は何度も見たことがある。

たまたま機嫌が悪い、余裕がないときに見たせいであろうか?

ただ、ちょうどこのタイミングでほかにも2つぐらい失言があった。一人は脚本家による原作内の「ノイズ」発言、一人はインフルエンサーの恋愛?関連だっただろうか。正直、この2つについては、何の感情もわかない。怒る理由もないし、肯定も否定もない。ただの赤の他人が発言しただけである。よって、機嫌が悪い、という私の状況が理由ではない。

では、なぜその同時期の発言の中で、この松尾という人間の発言だけ、私の怒りの感情が吹きあがったのか?

SNSの発信を止められたら困るから?それは違う。ちなみに私はSNSは見る専門みたいなもので、発信など殆どしていない。たまに呟く程度だ。それぐらい、発信に興味もないし、他人に有益な発信などしていない、ただの戯言、つぶやきだから閲覧数も気にしていない。

だから、別にSNSの発信を実際止められても、なんの支障もない。呟きなんてしなくても別にいい。

ただ、YouTubeも含めたSNSで、芸能人をフォローもしていないし、見た記憶もほぼない。コンテンツ優先で出演者で見るかどうかの判断をしていない。もっぱら趣味関連の動画とか仕事に関する動画ぐらいだ。芸能人やアスリートのSNSの発信など、正直、どうでもいい。

そんな芸能人に対して、なぜ怒ったのか?理由がわからないので分析するために、これまでのSNSやネットニュースで私がムカついたことを思い出す。

例えば、男性の臭いに言及し、シャワーを日中するよう要求し、肉体労働や屋外で汗水たらす人間を虐げるかのような、職業差別を感じる投稿をしたアナウンサー。

例えば、スポーツ選手に対してSNSで文句を投稿した者は全員逮捕する、といった政治家。

例えば、自分の意に反した政党に投票をした人間は「投票しなくていい」といったコメンテーター。

例えば、自分の意に反した政党に投票し続ける有権者を「劣等民族」と呼んだ、ジャーナリスト。

例えば、特定の政党に投票する有権者は「想像力がない」とレッテルを張ったアナウンサー。

例えば、保育士などの社会を支える職業でありながら、その制度上事業としての利益が少ないため賃金が低い人達を「底辺」と馬鹿にした実業家。

例えば、就職活動をしている学生が内定辞退したことについて、親の教育が悪いと罵倒した経営者。

例えば、コロナ禍で人々が仕事も含めて行動を制限されている中で、劇場もコンサートも観客が入れられない中で、「オリンピックという舞台で、日本代表である自分たちは特別なので、無観客でなく観客を入れろ」と要求したサッカー代表の主将。

例えば、流行遅れのファッションをしている男性を「モテない童貞」と蔑むアパレル会社の社長。

例えば、赤の他人のスーツの着こなし方どころか、他の人の身に着けるものを嘲笑する、アパレル店のオーナー。

こんな相手の発言に対し、私は怒りを覚えていたようだ。

つまりは、直接文句を言えない人たちを見下す発言をする、または、自分たちはお前たちとは違うといわんばかりの驕り高ぶった発言をするマスゴミ関連の人間、経営者、スポーツ選手、テレビ出演者たちに対して怒りを今まで覚えていた。

私は他人を嘲笑する言動をひどく嫌う。そして、大人になってからは、特に自分の職以外の人たちを差別し、嘲笑し、見下す言動をひどく嫌うことが自分なりに分析できた。

なぜ、そういう職業差別に「とらわれ」ているかは、私自身の禍根からだろう。それは自分が「特権階級」とまではいわないが、高収入で、安定性があって、周りからの信用が得られていた職業から、病気で解雇され、回復しても戻れなくなったという苛立ちという「とらわれ」があるからだろう。

ぶっちゃけ、この松尾氏の発言だけで怒ったというよりも、今までの積み重ねで怒りが爆発した。多分、これまでの蓄積がなければ、この知らない男の発言などどうでもいいと思ったかも知らない。繰り返すが、知らない人だし、動画で見たわけでないので、どんな言い方をしたのかもわからないし。

あと、他の方の投稿で、テレビに出ていない人たちを「素人」と呼ぶお笑い芸能人に対して快く思っていないから、というのがあったが、その認識には同意する。ただ、「素人」と呼ぶことだけでは怒らない。たいてい「素人」と呼ぶのは、「話術のプロ」としての自負からだと思うからだ。

だから、「素人」という表現に起ったのではなく、「素人が発信するな、見てるだけにしろ」という表現に怒りを覚えた、ということになる。

例えば、漫才やコントなどで芸を披露していることに対して、的外れな批判をする人に対して「素人」と呼ぶことはわからなくもない。

誰だって、自分の職については誰でも「プロ」で、その職の経験のない人は「素人」。そして「素人」の発言は、往々にして知識や経験のなさからくる的外れことは多々あるのだし、的外れな批判をされたら、誰だって「その仕事を知らない素人は黙っとれ」と思うだろう。

しかし、今回は別にお笑いに関して批判しているわけではない。それに対し「素人は黙っとれ」というから理解できない。なぜ自分たちとアスリートはSNSで発信できて、テレビに出ていない人は発信できないのか?そして、なぜ話のプロではないアスリートは特別枠なのか。

ここにこの男の発言の本音が見える。つまりは見る側と見せる側の違いだ。芸能人も芸を披露し、観客はそれを見ることで仕事が成り立つ。アスリートもプレイを見せる側で観客がそれを見ることで仕事がなりたつ。

見せる側だけが発信してよくて、見る側が発信することは良しとしない、そんな思想が見えている。これはマスゴミも同じであり、発信するのはマスコミの仕事、素人が首を突っ込んでくるな、という本音がSNS規制の話で透けて見える。つまりは特権意識と、排除意識だ。外国人排除とレッテルを張りつつ、本当は素人を排除したい、だけだろう。

SNSというサービスは誰でも発信できることで発展してきた。そこに、コロナ禍で仕事ができなくなったお笑い芸人やタレントたちがなだれ込んできた。後から入ってきてから、前にいた人たちを追い出す、その思考に対し怒る人もいるだろう。これは確かにとは思ったが、別に私は発信している人間ではないので、追い出されても別に構わない。

SNSでは松尾氏を擁護する発言もある。「別に気にすることではない」という発言もあった。「発言の趣旨と経緯を踏まえれば、文句をいうことでもない」というものもあった。「謝らせてどうしたいの?」という発言もあった。その指摘はごもっともである。多分、職業差別であると感じない人、この人物が差別しようがしまいが「どうでもいい」と思えるからだろう。職業に対する「とらわれ」がないからだろう。

尚、私は彼に謝罪を求める気なんてない。発言を聞いて怒った、という、それだけのことだ。相手にどうこうしろ、という要求をする気もない。何も求めないが、彼の姿を見る気もない。

他の方の投稿を見て、怒る理由、怒らない理由は人それぞれだと思った。そして、怒りというのは、受け手側のこれまでの人生経験の積み重ねと思想、信条、ひとことでいえば「とらわれ」が背景にあるのだと思う。そして怒るかどうかは、受け手のその時に沸き上がった感情に委ねられる。発信者にコントロールできるものではないし、起こった人にもコントロールできないかもしれない。そもそも第三者が理屈をもって、怒るのが妥当かどうか客観的に判断するものではない。怒るのは理屈ではないので、あらかじめラインが決まっているわけではない。人間の感情の発露である。

そして、その発言のみで怒る、という単純なことではない。

自分は他人や他人の職業を見下すような人間、自分の職と立場に驕り高ぶった言動をする人間自体が嫌いなこと、その嫌いな人間を見聞きしたことの積み重なることで、ある時に「怒り」として爆発したのだな、ということがわかっただけでも収穫である。

おまけで「お笑い」について。

そもそも、お笑いというのは、聞き手が「笑う」という感情を誘発することでなりたつ。しかし、その「笑い」というのは、人の失敗を見て「笑う」という他人を見下したたい感情と、ふざけた人に対して「怒る」という姿を見せる、という側面がある。つまりは、人間の意識のなかの「他人を嘲笑する」ことと「おかしなことをする他人に正常なことをするよう怒りをぶつける」という行為を喜んで見る、という側面がある。人を見下すこと、人に対して正常になるように怒ることは、笑いの場面に常に含まれる。つまり、お笑いは怒りを誘発しやすい行為だ。

お笑いは大抵「ボケ」と「ツッコミ」でなりたつ。それは常識を逸脱すること、失敗することで生まれるものであり、わざと失敗したり、常識はずれのことをして笑いをとることが「ボケ」であり、それを面白おかしく指摘するのが「ツッコミ」である。「シュール」は常識から逸脱した不条理である。また、お笑いの「玄人」は「常識」と「狂気」の境界線にいて、両方に片足を載せて、「常識」にいる「素人」に笑いを提供する、と「玄人」の本の解説を読んだことがある。「常識」では笑いは起こらず、「狂気」にいれば、笑いではなく、怒りか恐怖を生む。そのバランスを話術によって成立させる。コンビの場合、片方が「狂気」、片方が「常識」にたって、バランスを保つ。その技術を持つ者が「玄人」であろう。

爆笑問題というコンビがわかりやすい立ち位置だ。太田氏という「狂気」だけではダメで、田中氏という「常識」がいてこそ、あの笑いはなりたつ。そこで「狂気」の役割をする人間の発言のみを切り取れば「怒り」が生まれる。

そして「笑い」は、馬鹿にされる「もの」や「こと」が必ずあり、それを見て、自分がバカにされたと誰かが傷付くことは避けては通れない。傷つくことよりも、笑う人の割合を大きくできるかどうかは、話し方、間の取り方、その時の聴衆の心をつかむ、という「玄人」としての腕次第である。

という、お笑いの「素人」による「玄人」の受け売りの発言をした後に、問いたい。

彼のこの発言は「話術のプロ」がわざわざ「公式」動画にてプロとしての発言なのか?プロといえるのか?

また、このお笑いコンビはその後の対応も「話術のプロ」とは到底いえなない対応だ。謝罪動画において「発言を切り抜き」されたと釈明しつつも、現時点では元の動画を削除したままで確認できないようにしている。とってつけた謝罪をしつつも、切り抜きをして拡散した「素人」に責任を転嫁した言い訳がましい、他人を見下したままで、とりあえず沈下させて、忘れさせようとする行為である。そもそも、「笑い」として提供したのかも知らない。「素人」を非難できるほどの「玄人」としての対応であろうか?

多分一週間もかからず彼を怒る投稿は消えていくだろうし、大抵の人はこの出来事を忘れるだろう。SNSは炎上ネタを探し回して拡散し、話題にし、その後沈下する。もう終わった話だ。

ただ、彼の発言は、おそらく、彼の本心である職業差別に基づくものでしかなく、笑いを取りに行って、「狂気」や「常識外れ」の部分だけを切り取られて、怒りを誘発してしまったものではない。

コンビとして出演したうえでのあの発言は「話術の玄人」のレベルには達しない。ただの「芸と能力のある人間と自称する素人」である。ご自身の言葉通り「素人」はSNSの発信はやめられたらどうか?多くの素人はこんな職業差別の投稿はしない。

 

最後にこんな長い投稿でわかったことを、一言でまとめる。

私は、職業差別をする人間が嫌いだ。

何より、職業で大金を稼げたかどうかという基準で、人間の優劣を決めつける人間が大嫌いだ。

そして実は、その特権意識を持っていた自分を、その後転落した自分、つまり劣った人間に自分はなってしまったのだと思っている自分を認めたくない自分の本心からくるものである。