巧遅は拙速に如かず

仕事、自己啓発、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

「どうでもいい」と思った先に気づくこと

最近の記事で「どうでもいい」という考え方が自分に合っている、ということを書いた。

そう考えて仕事を約2週間やってみると、自分では気づけなかった自分の本音、こだわり、とらわれていることに気づけたような気がする。

その気づいた内容を以下、まとめてみるのが今回の記事である。

「自分のほうが〇〇より優秀だ」と周囲に認識してほしい

なぜこの発言にイライラするのだろう、反発するのだろうと思っていたことが結構ある。それを「どうでもいい」と他人たちの言動を眺めていると、自分は「自分のほうが〇〇より優秀だ」と他人に思ってほしい、と思っていることに気づいた。尚、〇〇は会社内の他の人の名前が入る。

自分は優秀だ、と書くと自惚れのように聞こえるかもしれないから、別の表現にすると「その案件、その専門分野は自分のほうが詳しいのだから、〇〇を頼るよりも、まず自分を頼るべきだろう」といったほうが正解かもしれない。

要するに「自分を周囲に認めてほしいのだ」ということに気づいた。自分をちやほやしてほしい、自分を頼りにしてほしい、自分がいないとダメだね~、自分にお伺いを立ててほしい、というメンツがその根源にある。

自負を持って仕事をすること自体が悪いことではない。自信なさげにするよりも頼りがいがあるからだ。問題は、自分ではなく別の人を頼ったときにその自負から不機嫌になってしまうこと、それが負の感情が続くことでモチベーションが下がったままなのが問題なのだ。

この話は笑えることがある。私はこのブログで書いている通り、今の職場から退職したいと常々思っている。

となると私がこの仕事を辞めたい理由が

「ちやほやしてくれないなら、こんな職場辞めてやる!」

と思っていることになるわけだ。…ただの駄々っ子じゃん。

とはいっても総理大臣経験者という、日本で数少ない成功者であってもマスコミの報道を見る限り、自分を立てろ、自分を頼れ、と思っていて、事前の報告や根回し次第で、支援したり、妨害しようとしたりするのだから、人間を尊重する人を助け、虐げる人は助けない、ということは自分の行動を決める基準にもなる。だから、仕事で物事を薦めるには、他人の感情も大事にすることを気にしたほうがいいのだ。(気にしすぎ、遠慮しすぎもよくないが、根回しが必要な理由はこの感情のためでもある。)

まとめると、自分では思っていなかった自分の自意識過剰さに驚いていて一人苦笑しているのが今の現状である。

自分の嫌いな人間は排除されるべきという思考の暴走を止める

嫌な目にあわされた相手がいる。悪口を言ってきた相手がいる。その時の記憶が残っている。相手が謝罪すると大抵はそこでお開き。

ただ相手が謝罪しない場合、さらに攻撃してきた場合は、謝罪するまで、相手が屈服するまで追い詰めたくなる。そのコミュニティから追い出したくなる。同じコミュニティのなかにいる人間も私と同様に、その人間を嫌うべきだと強制したくなる。

上記はまるで、SNSで執拗に失言や罪を犯した人間で、謝罪しない人間や罪を認めない人間をとことん追い詰める投稿をする人に似ている。エスカレートして誹謗中傷し、その人間を追い詰めようとする。

自称「正義の味方」の暴走として例に挙げられるタイプだが、私も現実社会での嫌いな人間に対する本音は同じである。

一緒なのは本心はその人間が嫌いなだけ。そこからの発展した行動をとるかどうか。そして、誹謗中傷してしまう人間とそうでない人間との違いは本当に実行するかどうか。人間の理性が実行しないだけで、心の中では同じ本音があると気づいた。

その背景には抑制した感情がある。その抑制した感情を発散させるために、正義という大義名分を使ったり、相手の非を見つけようとする。その負の感情をまずは認めることから始める。

認めた後に、なぜ嫌いなだけで済ませず、排除したいという欲求があるかというところまで分析してみる。すると、自分が気持ちを抑圧していることと、過去の経験と規範意識に「とらわれ」ていることがわかる。

こうあるべきという規範意識が自分を抑圧し、ある時爆発する場合もある。本当にその人に攻撃しないといけないのか?と自分に問いかける。そして嫌いは嫌い、それでいいではないか?と我に返る。

なぜ、そのように暴発してしまうのか?それは、過去の嫌な記憶を思い出し、それが未来にも悪影響を及ぼすと”思考”し、それを止めないといけないと妄想し、怒りの感情が妄想で増長するからだ。

他人など「どうでもいい」と思うことは、この過去の嫌な記憶と未来への悪い妄想と怒りの増幅という連鎖を止める役割を担う。

とっさに沸き上がる感情は、一の矢。その場を離れ、環境を変えることがベター。

「他人に否定されない」ことを意識しすぎると仕事に支障をきたす

さきほどの考えと似たようなものだが、「他人に悪く評価されたくない」という意識が結構ある。ただ、これは多くの人にも共通する考えではないか?悪く評価されたら、仕事に、家庭、恋愛関係の安定と現状維持、あるいは発展に響く。

周囲に悪く評価されると、そのコミュニティからはじき出される可能性があるので、人間の本能でもあろう。悪く評価されない、というのは人が生きる上で必要なのだ。

だとするとこの意識の問題とは何か?今2つあることに気づいた。

「悪く評価されそうな仕事を避ける」意識が強いこと

つまりはコンフォートゾーンから離れる失敗する可能性のあることから逃げようとする。逃げ癖がつくのが悪いのはまさにこのこと、失敗しそうなことと悪評価から逃げることが良くないのだ。

さらに、比較的簡単にできる仕事の場合でも失敗する可能性はゼロではない。だから簡単な仕事では余計失敗しないでおこうと、硬くなる、遅くなる、他人の反応が気になる。

チャレンジしていない仕事においての失敗は評価がさらに悪くなるからだ。

結果どうなるか?仕事は他人に依存し、逃げ癖が付き、不安が常に付きまとい、ストレスがたまる。

仕事のストレスの原因で大きいのは、周囲の悪評価と、悪評価の予期だ。

自分が評価しない他人に間違いを指摘されると反発する

ミスをすると他人から指摘される場合がある。そのミスは事実であって、完璧な人間などいないのだし、速度重視の仕事はミスが増えやすいので仕方がない。

だが、実際ミスを指摘する人次第で、モチベーションが変わるし、反発する。

自分のミスを棚に上げて、相手の人間もミスがあるではないか、とかこんな問題点があるとか、反発したい気持ちが強くなり、怒りが増す。

要するに、自分を悪く評価されたくないだけだ。そして、自分より優秀でないと思っている人間から指摘されるとムカつく。言い方も問題だが、いう相手も影響する。

そして、自分の評価者である上司から指摘されると、自分の立場を守るため、言い訳が増える。周囲の同意を得ようと徒党を組んだりする。

要するに自分を守ろうとしているわけだ。

ただこれを突き詰めて、他人からの誤りの指摘をすべて遮断するとどうなるか?間違いに気づけない。放っておいたら大惨事につながるミスも事前に誰かに止めてもらえない。直接ではなく、陰で悪口を言われるだけだ。

さらに、先ほどの優秀だと評価してほしいという話と同じことだが、自分はこの仕事を辞めたいと思っているのに、間違いだったり悪く評価されるのを気にしていることに笑えてしまう。

「悪く言うんだったら、この仕事辞めてやる~」という駄々っ子である。また、である。もはやおこちゃまである。40歳代の人間の心理として未熟すぎる。

多分、採用を仕事にする人の退職理由の「他責思考」には、この2つが含まれている。

これに気づけたのは他人の行動だ。

つい最近、60歳代のおっさんがお客からクレームを言われていた。その人はその日から3日ぐらい、「相手が悪い」など「仕組が悪い」など、ずっと言い訳をしている人間がいた。周囲はクレームをいわれたことをそこまで気にしていない。そんなひどいことをしたとは思っていないからで、相手との認識のずれか、相手の感情を刺激してしまったかだろうと思うぐらいで、クレームの発生によってその人の評価が下がったわけではない。ただ、言い訳を周りにしまくっていることで、人としての評価は下がった。

その姿はカッコ悪かったが、自分も同じような心理だと気づけたので、同じようにクレームをいわれたら同じことをしている可能性がある。他山の石。人の振り見て我が振り直せ。

「個人を責めるな、仕組みを責めよ」はマネジメント層が言うセリフであって、その責められる対象となる個人が「僕ちゃんは悪くないんだ!あいつが悪いんだ!」といい続けるのは格好が悪いし「僕ちゃんを悪く言うな、周囲は誤解するな!僕ちゃんは優秀なんだぞ!」という心理が見えて滑稽なのである。

赤の他人の悪口には反応しない、という選択肢もある

これは、ちょっと前の記事のSNS上のお笑い芸人の話でもある。SNSだろうが、ネット記事であろうが、赤の他人が書いた、話した、誰かの悪口を自分に対していったかのように置き換えて怒りに震えたり、反論したい気持ちが強いのが分かった。

そこには、上記のとおり「自分を悪く評価するな」という心理が隠れているものもあるが、自分の過去の経験からくる「許せないというこだわり」も色濃くでる。

反論したい理由が、こだわりだろうが、悪く言われたからだろうが、正義だろうが、日本をよくしたいだろうが、嫉妬心だろうが、他人を負かしてやりたいという気持ちだろうが、実はその深層心理なんて「どうでもいい」

赤の他人の発言を真に受けて反論した結果、相手が「謝罪」しようが、その発言を取り消そうが、相手を論破しようが、日常生活において自分の生活にはなんの影響もない。なんのプラスもない。むしろ、時間の無駄であり、感情を揺さぶられた分、人生を無駄にしている。

仏陀の話のなかにこんな話がある。

「悪口を言っている人間の言葉を受け取らなければ、その悪口は相手のところに残る」

当初この言葉は、悪口を言われたままにしろ、ということか?と反発したが。相手の言葉を受け止めなければ、反応しなければ、自分の心にその言葉は残らない、ということであり、自分には関係ない、ということになる。

悪口を受け入れる必要もないし、あえて遮断する必要もない、答える必要もない、言ったままにさせておけばいい。自分には無関係という意味で、「どうでもいい」。

相手がどうしてそんな発言をしたか背景まで知る必要もない。その背景を理解し真面目に考えてあげる必要性もない。相談業務を生業としている人でも、悪口を引き受ける必要はない。むしろ、専門家のほうが不要な情報は聞き流す。

こう思ってからSNSを見ると、悪口をいう、書く言葉がそのまま流れていく感じになる。自分が受け取っていないから、ただの文字、音として流れていっただけになる。

この単なる音、文字として過ぎ去っていく感じのことをいっているのでは?と思った次第である。

というか、SNSのタイムライン(フォローを除く)や、ネット記事の9割は不要である。というか、SNSのタイムラインで普段見ない投稿者が表示されるときは、他人の怒りの吐出し口かな?というぐらい悪口が優先的に多く表示されていると思ったのだが、気のせいだろうか?

不安なことは、時間をかけて調べると整理されて、問題は小さくなる

「不安があれば、行動しろ」と言われている。

それはおおむね正しいが、その「行動する」という解釈が異なる。他人に対し発言する、足を動かすという意味ではない。

不安になったりした場合はむしろその原因を探ってみる。未知の事柄を、自分の思考で悪い結果を想像しているだけに過ぎない時がある。そういう場合その未知の事柄を、未知のまま、とりあえず行動すると、未知のことが行動している最中も頭の中に残って、足を引っ張ったりする。また、その後、未知のまま行動したことを後悔する場合もある。

未知のことは、なぜ未知なのか自分で調べたり、他人に相談してみたりすると、意外と未知ではなくその場で対処が可能だったり、理解できるたいるする場合がある。また、自分には「どうしようもできないだから、考えても行動しても無駄」ということもわかったりする。「何もしないほうが正しい」という場合もある。投資詐欺とかが該当する。

今すぐに、LINE登録するのは、行動するのとは違う。

勿論全部納得できるわけではないが、未知の状態のままでいるから不安になる。焦る。これに対する行動というのは、未知のままでもいいからとにかく動け、というよりも、その未知のことを調べて内容を理解し、対処法があるかどうかも含めて探すことこそが行動する、という意味になる。

焦りは、どこかで見落としを生む

締め切りが近いと焦る。だが、焦ると、思わぬ落とし穴を見落とす。月曜日のことである。祝日に持ち越したくないと焦り、仕事相手に電話するも不在であった。不在なら仕方がないので、その資料を見直してみると、見落としが見つかったのである。そして、理解できなくて相手に聞こうとしたことの意味が自分1人で理解できたのである。

まあ、ネタバレしないように事実を書くとなんのこっちゃわからないが、焦って行動するよりも、落ち着いて物事を見ていると謎が解けたり、ミスを事前に見つけられたりする、という話である。

まとめ「どうでもいい」は、余分な感情をそぎ落とすこと

つらつらと書き連ねてみたが、どうだろう?要するに自分の無駄な感情に気づいた、ということだ。そして、その無駄な感情はただの取り越し苦労だけではなく、本来発生していない失敗や、怒りや、不安を引き起こし、生産性を落としているわけだ。

「どうでもいい」とは投げやりな態度ではない。今に集中する、ということだ。

今に集中する、というと誰でも納得できる話だが、どうやったら今に集中できるか、というのは難しい話で、それが解決できないから、仏陀や過去の哲学者が2,000年以上前に回答を見つけていてもいまだに悩み続けるわけだ。どうやれば今に集中できるかは誰にでも簡単にできる方法はおそらくないのだろう。

仏陀とは「悟りを開いた人」のことを言うらしい。悟りを開ける人など殆どいないから仏陀なのだ。

勿論、自分は悩みや不安をすべて解決できた、なんて大それたことを言うつもりはない。ただ「なんで自分はこんなちっぽけなことに感情や思考を振り回されて、悩んだり、不安になったり、怒ったりしていたんだろう?」と思えるようになる時間が増えればよいと思っている。