最近、新しい本を買って読んではいない。
ただ、これは”新しい本を買って”読んでいないのであって、昔買った本をもう一度読んでいる、ということである。
最近気づいたことがある。
要するに、過去の怒りも、未来の不安も、妄想でしかない想定も、一言でいえば「自我」と「執着」が原因である、と。
他の人の言動に過剰に反応してしまうのも「自我」があってこそだし、「こうすべきだ」という主張も「こうなったらどうしよう」という予期不安も、良い結果への「執着」である、と。
言葉だけで書くと、仏教に傾斜しただけじゃん、と思われるだろう。それは否定しないし、確かに「自我」も「執着」も仏教での表現であるが、要するに、精神科医も心理学者も統計学者も脳科学者も大抵は、この「自我」と「執着」という言葉を他の”言葉”に言い換えているのであったり、言いたいことの根っことしては同じであると。特に「執着しない」という表現は多々ある。
さて、過去に買った本として、ここに3冊の本がある。
1冊は「考えない練習」。2010年発行のベストセラーである。この本の作者は住職であるから、仏教の本と言えばそうなのだが、読んだ当時の感想は、

であった。悟りの境地に至るような人の考え、というか、俗世間でそんなことできるかよ、という感想であった。内容に反論はしない、だが実践など私には到底不可能。
それが2010年ぐらいの私の感想で長らく本棚に飾ってあった。
しかし、他の本で「自我」「執着」とは、こういうことではないか?という自分の中での解釈ができてから、2025年の今に読み直してくると、15年前には思えなかった感想ができてくる。著者の言いたいことの解釈が変わってくる。「別に出家しなくても実施できることがある」。そうなると、また読みたくなるのである。読むと感想が変わってくる。実践可能なことがでてくる。
15年の間に仕事で経験したことで置き換えてみれば、著者の言いたいことがわかってくる。
とくにこの本の中の「慢」という感情、つまり自分をよく評価されたい、自分を悪く評価してほしくない、という感情が、不要な思考を生み、感情を乱される、というのが感覚的にわかるようになっているのである。
もう1冊は「嫌いっ!の運用」という本である。著者は脳科学者。
私は嫌いな人間が大抵いるのだが、この本を買ったときは怒りがMAXの状態で、何かきっかけがあれば暴力を振るってしまいそうなくらいだった。これは怒りをなんとかコントロールせねば、と思って買ったのがこの本。だが、この本を読んだ最初の印象は、

であった。またである。言いたいことはわかる。だけど今、そんな冷静に分析して対応できないよ、と。
だが、今はどうであろう?
客観的にどうして怒るのか分析する、ということが今の自分ならばできる。その結果、怒りを抑える、コントロールするのではなく、怒りの感情がでてきても時間がたてば過ぎ去る感じ。
自己分析後は、自分の腹のなかで蠢いている怒りが、なんだが他人事に見えてきた。怒りが吹き上げてこないで、一時的に思いがけない時に発生するが、そのうちに消える”突風”のようなイメージなのである。自然現象であり、どうにかしようとするものではなく過ぎ去るイメージである。勿論、体調や気分や睡眠状態や状況に左右されるので、完全に怒りに対処できるようになったわけではない。こういう対処の仕方もあるのだという理解。
ちょっと前に記事にした、某お笑い芸人のYouTubeのコメントで自分が怒った原因を長々とブログの記事に書いた理由は、まさにこの本でいっていることの私なりの実践とその結果である。
怒ったこと自体を否定せずに、なぜ怒ったかを文字に書いてみると、自分の信条が客観的に見えて、なんだかその怒りが他人事のような感じがするのである。
氏の本は何冊も持っているのだが、その中に、他人の言葉に怒るのは、自分の「とらわれ」と抑制された感情のせい、という記述が多々ある。
その表現を見て、当初は
「怒る私のほうが悪だというのか?」
という反発であった。
だが読み直してみると、怒りというのは、自分の感情、これまでの経験の写し鏡というか、自分が「固執している」「とらわれている」「抑え込んでいる」思考信条願望の投影のような気がしてくるのである。
そして、これまた怒りが他人事になる。
とまあ3冊挙げたが、本はかった当初から何年か経って読み直すと、自分の年齢が上がったり環境が変わったり、知識が増えたりすると、著者の意図する意味が理解できるようになっているようで、読んだ感想が変わってくるのである。勿論、一読者の意見であり、著者のいいたいことが本当に理解できた、という自惚れではない。
これが面白い。最初の本15年前出版なので、当時はSNSなどなかったが、インターネットは広がっており、インターネットに対する著者の指摘は今でも十分該当するのである。
というわけで、今は本は新しい本を買わずに、昔買った本を読み直すことで、買って読んだ当時と感想が変わっている自分を実感することで、有意義な時間を過ごしていると感じているところである。
というか、自己啓発本は結局のところ、目指すところは昔から変わっておらず、その道にどう向かっていくか、という方法論とか、表現の仕方とか、解釈の仕方とか、具体例とか、その時々や著者の立場の違いに過ぎない。
ただ、この言い回しが人によってはすごく重要である。
どの人の、どの考え方が、腑に落ちるか。
同じことをいっていても、心に入ってこない表現、すぐに忘れてしまう表現、今の自分では同意できない考えなどいくらでもある。だから、何冊も同じテーマの本を買うのは無意味という意味ではない。多くの人の考えを知ることで物事がわかる場合もあるのだ。
最後に、メンタル疾患が酷いときに、主治医にいわれたことを紹介しよう。
カウンセラーや医師のかける言葉とか本で書かれている言葉で、全人類にとってこれを読めば聞けば解決する言葉などない。ただ、その言葉のなかで
「自分のなかで腑に落ちた時、胸にスーとしみこむような、理屈ではなく、感情で、感覚で、納得できた時が、メンタル不調から立ち直るきっかけになる」
自分にとって腑に落ちる言葉をみつけるために複数の本を読むこと、人生において本を読み続ける事は大事である。その時の自分にしかわからない言葉があるのだから。