巧遅は拙速に如かず

仕事、自己啓発、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

どうやって「怒り」を手放すのか

このブログでは、もう数年、「怒り」をテーマにした記事を書いている。

正直、「怒り」をテーマにした記事はアクセス数が殆どないに等しい。あまり、関心がないテーマなのであろう。だが、私にとってみたら、この「怒り」についての対処がここ数年の人生におけるメインテーマであった。

当初は、この「怒り」に対して、社会生活を送るにあたっては必要なものだと思っていた。私は、メンタル疾患経験者だ。その原因は一つではなく、単純なものではないし、メンタル疾患前だって上司にたてついていたぐらいなので、「怒り」を抑制しすぎて、従順すぎて、真面目過ぎて、メンタル疾患になった、という推測は私に関しては当たらないと考えている。

だが、「怒り」の発露は、メンタル疾患から復帰後に、他人に舐められないためには必要だと考えていた。

このブログ立ち上げ時に書いていたが、メンタル疾患について面接官からよくふざけた言葉を投げつけられたものだ。今のご時世だといわれないだろうが、人間の本心は同じである。

メンタル疾患患者は、メンタルが弱い。社会人としてやっていけない。

そのレッテルを覆しかったのが本音だ。怒る、というよりも、舐められないために、威圧するために私はこの怒りの発露を利用してきた。怒りの感情を舐めた人間に対して向けると、大抵の相手が怯むものなのである。そして遠慮する。疎遠にはなるが、舐めた真似はしてこない。舐めてくる相手と仲良くなる必要などないし、メリットもない。周りも配慮し始めることに気づいた。怒りは、他人が自分に配慮させるための手段でもあった。

怒っている人に向かって、さらに喧嘩を吹っ掛けてくる人間は、喧嘩になった人間やお互いに感情的になり怒っている状態や、ヤンキー以外ではほとんどいない。なぜ喧嘩を吹っ掛けてくるかというと、基本は相手が自分が舐めているからだ。メンタル疾患患者、人生の落伍者、社会の底辺、人生の負け組、弱者男性という罵りに対して、怒りをもって対抗してきた。

世の中の人間は、世の中の弱い立場の人間に対してだけ強気に出るゴミクズばかりだ。だが、このゴミクズどもは、自分の身の安全を犯してまで他人を馬鹿にする人間などそほどいない。怒りをもって対処すれば、リスクを冒してまで他人に対して舐めたことをしてこない。

それが、メンタル疾患復帰後、15年ぐらいの私の処世術であった。

だが、最近、この考えが変わってきている。舐めた人間に対して舐められたままでいつづけるつもりはない。

ただ、「怒っている」状態、というのは、自分の視野を狭める、人生の生産性を下げる、人生の時間を無駄に過ごす、舐めた人間以外の良心的な人間も敵になってしまうということに気づいた。

特に怒っている状態であるとミスが多いことに気づいた。車の運転で怒りながら運転していた時に、危うく事故を起こしそうになった。視野が狭くなり、注意力が落ちる、という弊害があるのだ。

あと、怒りすぎて、あやうく手がでそうになる。怒るのは、あくまでメンタル疾患患者として弱者男性として舐めた人間に対する対抗処置ではあるが、手を出してはダメだ。だが怒りで、手が出そうになった。

あと、これは私の根拠なき推測ではあるが、SNSで炎上する案件も、怒りの発露に近いのではないか、と思っている。舐めたことをされた、喧嘩を売られた、それに対して怒りのボルテージが上がる。他人の投稿が、怒りという火に油を注ぐからではないか。(勿論、誹謗中傷を肯定する意味ではない。)

手を出せば犯罪加害者になる。怒る意味を見失う。怒るのは威嚇であって、加害者になるのとは違う。

これは、怒りというものをコントロールしないといけない、というのに気づいた。

だが、この怒りというのは、どれだけ怒らないでおこうと思えば思うほど、抑えることができない。認識して分析して客観視しようとしても、うまくいかない。

どうしたものか、と思っている時に、ここ数か月でふと気づいた。私の怒りの根源を、怒りに対する処世術を、対処法が見つかりつつある。

無論、全く怒らないわけではない。ただ、怒りで我を忘れたように怒号をあげるようなことは殆どなくなった。怒りを抑えるのではない。怒りが通り過ぎる、というその間感覚をつかめそうなイメージが今あるのである。

それは自分の怒りの原因が掴めそうだからである。

あと怒ってはいけない、という欲圧ではなく、他人に対して言葉を使って怒らなくても、舐められない術が手に入れそうなイメージができてきたのである。

怒っていはいけない、のではない、怒る必要がない、怒ってもその怒りが通り過ぎるのを待てばいい、という感覚である。

…また気が向いたら、この話をしたいと思う。あと、不安についても対処できそうイメージがでてきたのである。

この話題は読者のニーズがないのだけれども、私の人生にとっては非常に重要であるので気が向いたら、加筆したり、別の記事を挙げる。