巧遅は拙速に如かず

仕事、自己啓発、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

どうやって「怒り」を抑えるのか

「怒り」をテーマにした記事の続き。

前回の記事のあらすじ。

私の中で「怒り」の発露は、他人に舐められないための手段であったが、最近この「怒り」に振り回されていて、集中力を欠いていて、下手をしたら交通事故か、暴力沙汰を起こしかねないので、「怒り」をコントロールしなければいけないと気づいた。

そしていくつかの本を読み漁った結果、「怒り」をコントロールできそうなイメージがふとここ数か月ででてきた、という話であった。

※詳細は下記リンクより。

kesera22.hatenablog.com

そして、今回はその「怒り」をどのようにすれば、コントロールできるか、という具体的な話をまとめたい。

尚、現時点ではまだまだ試行錯誤中であること、また私は何も「悟り」を開いた、とか、宗教に目覚めた、という話ではないことは前置きしておく。

怒りを抑えるためには、思い出さない、見ない、聞かない、言わない、知らないこと

私の中では、このタイトル通り、この5つに気を付ければ、怒りをコントロールできるというよりは、怒りを鎮めて、怒りが持続化する機会を減らせるのではないか?というイメージを持っている。「見ざる聞かざる言わざる」に思い出さず、知らないを加えた5つである。以下、具体的に説明する。

前提:初動の怒りは防げない

その前に、怒りでムカッとなること自体は防げないことに触れておく。有名な僧侶、和尚であっても一瞬ムカッとなることは防げないらしい。

その理由は、人が集団生活で生き残るための防衛反応として「怒り」という感情があるからである。誰かに傷つけられた、妨害された、邪見にされた、という事象を見逃すわけにはいかないのである。それに気づかなければ、集団生活からの除け者にされる。集団生活から追い出されればヒトは生き延びれないし、子孫を残せない。その危機を知らせるために脳は知らせてくれる、らしい。

だから、最初から「怒らない」ということはできない。

以前、「無=最高の状態」という本の紹介で、仏陀が「一の矢は防げない。二の矢をふせぐことが肝心」というような話をした、ということを書いた。二の矢とは、怒りを自ら生み出すこと、それは自分の手によって生み出した「怒り」であるから、らしい。

心理学の本でも、「怒るのは、あなたが怒りたいから」という紹介がある。怒るのは自分自身。周りのせいではない。これは、先の一の矢でなく、二の矢を指す場合が多い。その自分自身が怒るのを防ぐにはどうすればいいか?という話である。

思い出さない(思考しない)

俗にいう「思い出し怒り」である。過去に傷つけられたことを思い出して怒る。過去に傷つけられたから、その復讐として怒る。

先にいった、最初の時は実際に怒った瞬間の防衛反応だが、その後になっても怒っている状態が引き続いているのは、その怒った瞬間のことを思い出しているからである。

思考している、ともいう。怒ったことを頭で復唱している。その理由を、その原因を、その対処を思考している。

その思考する理由を考えてみれば、その発端は過去のことを思い出して思考し、怒りが再熱しているのである。

だから、裏を返せば、思い出さなければいい。思い出さない、ということは忘れてしまう、ということである。

「忘れること」と紹介される場合があるが、「忘れる」といわれると「その侮辱は忘れてたまるか!」「自分が負けたままでいいのか!」と逆に怒りが再熱し、復讐心で燃え上がる。

だから「思い出さない」「思考しない」。頭を動かすのは現在のことであって、過去のことにリソースを費やさない。今に集中する。

言い方は色々あるが、私の中では2の矢の怒りは「思い出し怒り」であるから、過去のことを「思い出さない」、頭を使わない、というイメージでとらえている。

見ない

SNS、ニュース、ワイドショーを見ない。ニュースは事実と天気予報と災害と生活と仕事に必要なことだけでいい。もっと具体的に言えば、キャスターとコメンテーターのコメントはいらない。

SNSもニュースもワイドショーも、視聴者に怒りを誘発しようとする。見出しで怒りか不安を煽り、感情を揺さぶろうとする。…正直「特殊詐欺」と何が違うのか、というぐらい煽る。

専門家の意見は役立つからよくて、素人だったらただの私見だから悪い、というわけではない。

具体例をあげよう。

今日のワイドショーは公明党自民党との連立から離脱することのニュースが多かった。

それについて、専門家らしき人は、テレビに出演していた公明党の幹部に対して、離脱することの理由を何度も聞いていた。曰く「政治のカネ」の問題ならば、選挙に負けたタイミングや、石破政権、発覚した当時の岸田政権の時に離脱しないと理屈があわないのではないか?」

もっともな正論である。だが、その質問者の本音は、「今の自民党の執行部にいる〇〇〇〇が嫌い」という発言を引き出したいのが丸見えである。

おそらく公明党の本音もそこであろう。9日に猶予も与えず決断した理由は自民党の現執行部の顔ぶれが理由だからであろう。

だが、その質問の答えを知ってどうなる?本音だろうが建て前だろうが、公明党は今の自民党とは決別した、という事実だけである。

専門家ですら、この質問である。ただの誘導尋問か、憶測を真実っぽく、専門的っぽく言っているだけである。

対して素人ならどうか?

別のワイドショーで芸能人が、「国民そっちのけの野合や主導権争いをしてどうするのか?」という文句をいっていた。

もっともな意見であるが、自民党公明党も自身の支持者、支持する団体の意見を聞いた結果、総裁を選び、離脱を選んだ。今の与野党のどの勢力も過半数に届かない微妙な議員数は、選挙の結果であり、国民の投票結果が反映されている。政局が嫌ならば、国民がひとつの政党を選べばいい。独裁政権を選べばいい。

このタイミングでのこの発言があまりにも政治の歴史とか状況を知らなすぎて、このテレビを見て何の価値があるか?とも思う。

そう、専門家も素人の意見も、なんの役にも立たないのがニュースである。SNSの素人の投稿は不要だといった芸能人がいるが、素人も専門家もニュースに関しての意見は大差ない。

ただ、「どうでもいい」「なるようになる」「私にはわかりません」「興味ありません」と本音を言ったら、次はコメンテーターに呼ばれなくなるから、何か言わないといけないのだろう。それがワイドショーである。だから、彼ら彼女ら個人を責めるつもりはない。

つまりその番組自体をみる価値がない。見る時間が勿体ない。コメンテータの解説などいらないので、事実だけ、結論だけ知ればいいのである。

過去の記事で書いたが、人生においてニュースを見る時間など殆ど必要ないことに気づいた。そして、SNSで政治と芸能のニュースを見ないでおくと、刺激物が足りない感じがすることにも気づいた。人の悪口は刺激物であり、脳が刺激を求めているのだ。

だが、その刺激物は自分の人生には何も影響しない。むしろ、怒りを誘発する。怒るべき対象を見つけて視聴者に提示することが発信者の商売。だが、それに付き合っていては、見れば見るほど、他人の怒りの発言を見聞きすればするほど、怒りは大きくなっていく。

SNSの「炎上」は、1つの怒りが他人にも拡散させて、人の頭の中に怒りを広げることで火の手が広げる。本当に、「炎上」とはよく言ったものだ。

現実社会でもそうだ。仲間が怒れば、その怒りは伝染する。

そうやって怒りの勧誘をしてくるものに対して、わざわざ出向いて、怒る必要性はない。

目に入ったとしても、「あれは文字である。」「あれは映像である。」「生物が動いている。」という他人事のようにとらえることができればよい。

聞かない

電話でクレームを受ける。対面で文句を言われる。そんな時も、真摯に聞かない。他人事のように、音として聞く。

国会で、野党が挑発しても、大臣や官僚たちが全然気にも留めず、話も聞いてないかのように答弁する場合がある。

あれは挑発に乗らない、という冷静さがある、というわけではないそうだ。勿論冷静な人もいるが、あれは答弁がもう紙に書いてあるので、それを読むだけだから、挑発は自分の読む順番の前に、誰かが読んでいるだけで自分にいっているわけではない感覚になっているそうだ。自分の順番がくるタイミングを知るために、その話が終わるタイミングを待っている、そんな感覚になれば、挑発されて怒りは誘発されない。

クレームは、相手の無理な要望は、相手の馬鹿な主張は、自分の尊厳を傷つけるものではない。

「音が聞こえる。」

ただその事実だけをとらえる。過去を悔い改めないといけない、隠さないといけない、うまく処理しないといけない、怒りを治めなければいけない、または売られた喧嘩は買う、と思考しなければ、怒りにならない。

言わない(無言)

いわゆる、怒りが続く時間の「7秒ルール」に似たようなものである。最初に怒った瞬間は防げない、と書いたが、それが続かないようにするためには、その怒りが怒った7秒間は、怒りにまかせて発言するのを避ける。

つまり、言わない。

我慢するのではない。屈服するのではない。相手に従うのではない。

無言のままでいる、ということである。怒りの感情がある場合は何も言わないで、7秒以上待つ、ということである。

言わない後に、最初の「思い出さない」という過去の出来事になる。ついカッとなったときの発言が原因で、後にも影響がでることを避けることができる。

そして気づく。怒りという感情自体はそんな深刻に考えることではない一時的なものだと。

知らない(我関せず)

知ろうとしない、という意味ではない。知ろうとするというのは見る、聞くと同じようなものであるから、知る=見る、聞くと近い。

だがここで言いたいのはその「知る」ではない。

言葉でいうところの「わたし、し~らない」のことである。

我関せず。

他人のことなんてなんて「どうでもいい」「知ったことではない」「勝手にすればいい」という突き放しが本音である。ただ、この3つ言葉をいうと、相手がカッとなって喧嘩を誘発しかねないから、「し~らない」といって、私を巻き込まないで、とラインをひくのである。しかも「し~らない」だと、突き放す、同意しないという意思はバカじゃない限りは相手は察する。

余計な争いに巻き込まれない、余計な口出しをしない、話してしまうと怒りがついてきてしまう、そんな時は「し~らない」という。

他人に対し、意見を言うときそこに自分の願望が混じる。問題点の解消や発展のためには、意見なしではその職を失う可能性もあるが、他人に強要するような強い願望までになると、怒りの源泉、燃料となりうる。

うまくいかないときは、睡眠不足、体調不良、焦っているか

上記について、うまくいかないときがある。その原因は大抵想定外のことが起きたり、時間の余裕がなかったりする。ただ、個人的な分析だが、妙に怒りやすいときは、焦っているか、体調不良か、睡眠不足だ。これらの状況の時は、大抵心にゆとりがない。頭が回らない。功を焦る。健康管理と心の余裕があってこそだ。

どうしても、思い出したり、見聞きしたり、言ってしまうときは

それでも、どうしても、嫌な記憶を思い出したりする場合がある。思い出しても何もいいことはないのはわかっているはずなのに、思い出して怒り、思い出して心配し、思い出して言い訳を考え、思い出しては相手の気持ちを勝手に推測して自分の心が納得するようになだめる。ただ宥めても、理屈を合理的に考えようとしても、相手の心情を予測しようとしてもダメだ。

その理由は相手のことを考えているのではなく、自分が納得できる理由を考えているだけだからだ。つまりは「自分は悪くない」と思いたいだけだからだ。

そういうときは、思い出すな、と意識してもうまくいかない。逆に、思い出すことを無理にやめようとしてせず、思い出している自分を客観的に見つめることで、思い出しを止めることができる。

この言語化が難しいが、自分が今怒っているな、と、あれこれ試行錯誤して言い訳を考えているな、相手が悪いとか、仕方がないとか、運が悪いとか理由をつけているが、結局は自分は悪くないと、自分で思いたい、相手や周りに思わせたいだけなんだな、と思う。そうすると、自分で自分に笑えてくる。「何、言い訳しているんだ、滑稽だなあ」と。そうすると、時間がたてば、思い出しが収束していく場合が多い。

 

怒りは「火」であり、「突風」である

最後にたとえ話。これは聞いた話である。

怒りは「火」のようなもの。最初に発火しても、燃料を与えなければ、酸素を送らなければ、いづれ鎮火する。最初に「火」がでるのは防げなくても、燃料を与えなければいい。その燃料とは、先にあげた「思い出す」などの4つである。怒りという火が燃え続けるのは、大火事になるのは、自分が燃料を投下しているからである。

怒りは「突風」のようなもの。それは防げないが、いつかはやむ。しっかりと固定していれば、その突風で流されたりしない。そしてそのうち「突風」は治まる。

「突風」に流されるのは、1つは自分の土台が弱いからである。どうしようと、うろうろしたり、他人に助けを求めたり、突風が吹くこと自体をなくそうとすることである。

そしてもう1つは、わざわざその突風が吹いているところに出向いているからである。そう、あえて見たり、聞いたり、発言したり、思考したりするからである。