巧遅は拙速に如かず

仕事、自己啓発、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

大学生時代は、面白い人間に出会えれば楽しいと思うよ。

とある本を読んでいた時のことである。著者が自分の人生を振り返ったときに以下のような記述があった。

「大学生の時は何も得ることがなかった。無駄な時間だった。」
「大学に入っても面白くなかったので、中退した。」
「大学という”学歴”を手に入れただけ。学歴以外に得られるものは何もなかった。」

この意見を否定する気はない。なぜなら、

「貴方がそう思うんだらそうなんだろう。」

だが私はその意見には賛同しない。なぜなら、私は大学生時代がとても楽しかったからだ。

そもそも大学というのは高度な学問をするための、研究をするための高等教育である。学習結果を経て就職先に繋げていく。また自分が望む仕事に就くための第1歩ともいえる。(だからとって1回生から就職活動に時間を割くのはどうかと思うが、私が以下でいいたいことと話がそれてしまうので省略。)

高校卒業時点で既に自分の将来を決めた人にとっては、大学の4年間は時間の浪費になるかもしれない。学費も高い。経済的に大学に行けない人だっている。誰にとっても絶対に必要な場ではない。

だが、繰り返しになるが、私は振り返ってみると大学生時代がとても楽しかった。私にとっては、自分の価値観を変えるためには必要な場であった。また、就職した後でもその時に学んだこと、特に根底となる物事を理解するためのの”基礎”は取得できたといえる。(例えば、私は法学部卒業であるが、社会人になって法律を読んで時に、その理解する速度や質は、法学部以外の人と比べても決して負けない。大学生としては決して優秀ではなかったが、学んだことはそのあとの人生において無駄ではない。)

そして人の交流は大人になった今も続いている。高校時代や会社の人と比べて交流関係の継続率が違いすぎる。

では楽しかった理由が何かというと、それは「人」である。

でたー!「人」(笑)。就職先の志望動機に使われる「人との出会い」だって!という笑い声が聞こえてきそうだ。悪口を言いたい人は言わせておけばいい。

ただ世の中は「他人」と交わることで、”自分”というものが見えてくるのだ。私は自分ひとりで完結できそうな「学生時代に力をいれたこと、通称ガクチカ(笑)」よりも人と交流したことで得たことのほうが人生に影響すると思う。最近流行りの”言語化”ができない関係のほうが人生において有効な場合が多い。

言語化”は、単純化、断言に重きを置き、自分をコンテンツ化することを意味する場合も多い。要するに、わかりやすいキャラクター。創作物、ショーにおいては必要だが、現実のビジネスの場ではそれほど必要ではない。

どんな難しい本も単に読んでいるだけではその中身を把握できない。現実社会で人と交わり、現実社会で困難に直面したことで、初めてその本で言いたいことが何なのか腑に落ちたりするものだ。

能書きを垂れるよりも、具体的な理由を述べたほうがわかりやすいであろう。

「人」といっても、ただその辺にいる「人」ではない。今でいうと、スマホをいじってSNSYouTubeを見ているだけ、口論しているだけで何も有意義な発信ができない「コメンテーター」、SNS上の「プロ」の言いなりの人、他人やアルバイト先の悪口ばかりをいっている人、SNSでキラキラした自分を演出する「セレブ」と交流しても得るものは殆どなかろう。(SNS上での見せ方というテクニックは得られるかもしれないが)

高校時代での交流範囲は狭い。自分と家族と学校と部活で出会う人ぐらいだろうか?満足に金銭を獲得できない未成年という立場では、一部の富裕層と早熟な才能の持ち主以外は、移動できる範囲は限られている。そこから大学で交流範囲は一気に広がる。

私は大学で、自分のそれまでの狭い世界での常識とはかけ離れた人に出会えた。彼らは私の狭量な価値観や常識にとらわれていなかった。自分が知らない世界を知っていた。自分では思いつかない価値観や思考回路を持っていた。

そういう人と出会えた。その出会いは既存の価値観や常識に囚われて、人目ばかり気にしていた、今でいう「キョロ充」であった自分の脳天をかち割ってくれた。

偏差値という基準で頭が良い、ではない。物事の見方、考え方がこれまでの人生で出会った人と違うのである。世間の常識とは違う基準で行動している人に出会えたこと、そしてその常識にとらわれない人のほうが人生を謳歌できることを知ったことが、私の人生にプラスであった。

だが、そういう人と出会えたのは、たまたま声をかけてもらったのがきっかけではない。私は周りの常識に合わせて、自分がやりたいことを高校生時代は我慢していた。そして大学生になった時にやってみたいことを高校時代から考えていて、大学に入ったら、即実行した。そして、その実行した先に、常識外れの人間に出会えた。

行動した結果である。

また、裏を返せば、高校時代の自分は、実につまらない人間だった。そして周りもつまらない人間ばかりであった。世の中をつまらない、くだらないと見下していると、つまらない人間ばかり、文句しかいわない奴しか周りに集まらない。ラノベとか漫画のように、諦観して、傍観して、学校に来ているだけの人間が、ひょんなことから個性的な人達に囲まれて周りから評価されてハーレム生活を送る、ということなど現実にはない。自ら動かなければ、座ったまま学生時代は終わる。

大学生になればいいというわけではない。つまらないと諦観していたら、何歳でもどんな身分でも、つまらない人間としか出会えない。

高校までと同様に大学でも所謂「リア充」の集団はいる。だが、他人に歩調を合わすのが上手い、世間の流行を追っかけているだけの集団からハブられないように気にして話していることが、私にとってかなり「つまらない」時間であった。

大学1年生の時に「クラス分け」というのが当時あった。しかし、私はその輪に入らなかった。「クラス」という単に人数をわけただけの、考えも価値観も違う人たちと、狭い部屋で一緒にいるだけでは、得られるものなどほどんないことを高校時代までの経験から知っていたからだ。あれは大人が作る牢獄。無論、いい出会いもあるかもしれないが、実際話してみた後、自分と同じく世の中の文句ばかり言っている奴ばかりだったので早々とそのグループから抜けて勝手に行動した。

おそらく大学時代はつまらないという人は、行動しなかったか、周りばかり気にしているか、運悪くつまらない人にしか出会えなかったのだろう。コロナ禍でオンライン授業のみの時間を過ごすしかなかった人たちは気の毒である。または行動した結果、大学生という枠を超えた社会の中で出会いがあったか。

そして、高校時代は、偏差値の高い大学、世間受けのいい大学への合格者”数”という数字しかものをみていない教師のような大人しか出えなかった。大人になってもそうだが、”数字”だけしか見ない人間は総じてつまらないので付き合う基準ではない。

そんなつまらない、くだらない思想に染まった自分が大学に入って一変した。他人の評価なんてクソくらえ、という思春期の反発ではない。「他人の考え、何それ?」という感じで、つまらない他人と歩調を合わせることなど眼中にない人間に出会えた。

一言でいうと「実に面白い」。そういえる未知の刺激。

今でいうと「チー牛」「豚丼」とか揶揄される容姿の人もいたが、彼ら彼女らはそんな評判も気にも留めない。文句もいわない。そんな周りの狭い基準、評価にあわせて他人と優劣を競っている人間と関わっている時間が人生の無駄だということが、18歳ぐらいにしてわかっているような人に出会えたことで、いい刺激を貰えたと思う。

別に同じ大学の学生だけではない。バイト先で色々な大人にも出会えた。これまで歩んできた人たちと人生経験が違う。だが一本筋が通っている。なんかこう、自分にはないものを持っている人達から得られる感性。それが実に有意義であった。

あのまま高校をでて、もしオンラインだけで大学の授業を受けた場合、そのまま世の中はくだらないという思想で社会人になっていたであろう。

だから、大学に行くならば、それまでの高校生までの間に出会えなかった人達と会うことで、いい意味の刺激をえられる楽しさを得てきてほしいと思う。大学生だって、周りの目を気にして周りの受けのいいサークルに入って「リア充」と呼ばれる集団に入ってはつまらないだろう。

高校時代の方が楽しかった人もいるだろう。それは私と違い、高校時代に行動して、いい出会いをされたのだと思う。

そして大学生活の終盤には就職活動に入る。リクルート社とその出身者などが主導するくだらない就職活動と思想に従い、またくだらない画一的な人間になってしまっていた。不採用が連発していた。時は就職氷河期時代である。

しかし、上記の友人達は、そういうくだらないリクルートや自称「採用のプロ」の話なんて全く無視していた。しかし、彼らは結構スイスイと採用されるのである。

そういうのを見て、自称「就職のプロ」の意見を無視して、彼らを真似て自分の言いたいことをいっていたら、内定がとれるようになった。

結局は、他人や世間が求めている人間を演じているつもりで、採用担当者からは、自称「就職のプロ」の言いなりでしかない、個性のない、つまらない人間だと見抜いていたのだと思う。金太郎飴と同じような、自称「採用のプロ」が作った言葉であることがバレバレな「ガクチカ」と「自己PR」と「志望動機」を暗記して話をしていたら、そうなる。

ちなみに、そんな常識に囚われないような人間は、当時狭き門でなかなか採用されなかった公務員になった者もいた。なんで「公務員」?と思ったが、もう確立した個が生み出す面接での回答は、他の「金太郎飴」のような回答と違ったからだろうと今なら思える。他との当時知りもしなかった、就職ランキングには掲載されていない会社に入社したのもいるが、その後その会社は大きく成長して高収入を得ているものもいる。また、今でも就職で大人気であろう「マスコミ」関連にも採用されていた。見た目は「チー牛」なんだが。顔採用もあるかもしれないが、全員、全社がそうとは限らない、と私は言い切れる。それは実例があるからである。

常識、というか、世間や他人の目を気にしすぎて型にはまった人間よりも、自分の目と頭で考えて自分の足で歩んでいる人を、青臭いと思ってもちゃんと採用担当者は見てるのだろう。(当然、頓智問題を出してマウントをとった気になっている採用責任者、マニュアル化、数値化して判断している会社もあるので、会社による。)

リクルート主導、自称「採用のプロ」の面接対策だけで受かる会社とか、頓智問題で学生にマウントをとって悦に入っている採用担当の責任者がいる会社なんて、学生は採用担当に課されたノルマである「採用人数」という数字の要因でしかなく、使い捨てにされる会社だから、そんな会社はいらなくていいし、無視すればいいと思う。

ちなみに最初の就職先で最初に仕事を教えてもらった人は常識外れの上司だった。今でいうとトランプ大統領のような人。むちゃくちゃだった。まわりはあの人の下で働いて大変でしょう、と同情されたが、色々なことを教わり、経験させてもらって、そのおかげで今でもその経験を活かして仕事があって、生きていける。

その上司に2年しごかれた後、別の上司に変わったときに「俺に2年間ついてこれたのだから、どこでも仕事はやれるはずだ」とお褒めの言葉をいただいたが、まさにそうであった。病気で長期離職するハンデを負っても、別の会社で食べていけているし、これからもその自信はある。

私は子供の頃より、大学生、社会人の頃の方が人生は楽しい。なぜなら、親や大人に強制されない、他人や組織の常識に従っていない、自分の人生を歩んでいる感覚があるから。安定していないし、躓くし、悩むし、愚痴も多々あるけれども、トータルで見て大人になったからのほうが人生は楽しい。

やっぱり自分の人生を、自分が大事にしたい価値観をみつけるには「価値ある人」と出会うことだと思う。そして、つまらない人生、時間だというのならば、そこで出会う人から刺激を得られないか、自分が楽しいという時間を過ごせていないか、今の時間に価値を見出せないか、周りにあわせて自分の時間を過ごしていないから。

さあ、そのスマホを手放して、SNSから発せられる情報で時間を無駄にしないで、自分の意思で行動している人と会おう。

尚、出会いは重要であるが、胡散臭い儲け話を持ち掛け来る輩や、闇バイト、カルト宗教も、怪しい政治団体も、社会経験のない大学生を狙っている。誰でもいいわけではないことは補足として付け加えておく。