巧遅は拙速に如かず。急いては事を仕損じる。

仕事とメンタル不調に関する思考バイアスに自分で気づくための日記帳

「自己受容」「メタ認知」「自己肯定感」などの言葉の定義について

最近知った言葉をまとめた記事。調べてみると、言葉の定義というのが、使っている人によって変わりやすく、また違う意味でとらえられやすいと感じている。

私は、国語の専門家ではないから、正確な定義を知っているわけでもないが、感覚的にこう捉えているという備忘録。

正しい言葉の意味を知りたい人は、非推奨な記事なので、一旦改行。

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「私の幸福論」書評:優れた本は70年たっても色褪せない

「私の幸福論」というタイトルの福田恆存氏が書かれた本がある。大層人気な本らしい。

読んでみたいと思っていたが本屋で見つけられなかった。電子書籍でも見つけられなかった。図書館でも見つけられなかった。なにせ昭和30年~31年に女性誌で連載された話をまとめた本だから、今見つけられるとしたら昔からある古本屋ぐらいかとなかば諦めていた。

だが、たまたま、家から少し離れた本屋の文庫のコーナーで見つけることができた。私は「自己啓発」コーナーなどに置いてあるのだと思っていたが、文庫コーナーの「ちくま文庫」のところで1冊たまたま見つけることができた。

本の裏を見ると、「ちくま文庫」版は1998年9月に初版発行と書いてある。そして、手に取っている今の本は「2026年6月 第27刷発行」と書いてある。つい最近のことだ。かつては「新潮社」版、高木書房版もあるらしい。後からほかの本屋に行ったら、同様に「ちくま文庫」のコーナーに置いてあった。今なら他に入れることができる本である。

もともとは女性誌で連載していたものを1冊にまとめたもの。読者は女性がメイン層であろうが、著者はいきなり冒頭で、「自分は男であるから、男目線で書くこと」を宣言している。そして、男が読んでもなんら問題はない本に仕上がっている。

この本のインパクトは、なんといっても最初の「美醜について」である。顔の美しい、醜いについて述べる、という大層勇気のいるテーマを冒頭にぶつけてくるである。だが著者は、「人間は顔ではない」というようなことでぼやかさない。そして、他人は顔の美醜によって最初に人を判断するものであり、人間とはそういうものだ、と現実をぶつけてくる。

今こんなことを書いたら、ルッキズムだの差別主義者など言われて、炎上騒ぎとなり、連載も中止になりかねないだろうなあ、昭和30年代に書かれた本だから許されるんだろうなあ、と思ってページをめくったら、次の章で「ふたたび美醜について」と続く。

なんでも、前回の「美醜について」で読者から数十通、批判の手紙が届いたとのこと。その釈明のような文章から始まり、前回のテーマでふたたび書き直す展開になる。言葉の選択と話の流れがうますぎて、私はそこで笑ってしまい著者のペースにはまっていった。SNSやインターネットが無い時代でも、そりゃ醜い顔の人は美しい顔の人より不幸といわれたら、だれだって反発する。

だが言い直しても、ことの本質は変わらない。「顔が醜いと不幸」というニュアンスで書くと、現代広まっている「幸福」の定義から許されない表現となってしまう、言葉のチョイスが間違っていたと謝罪する。だが持論の根本は変わらず、表現をかえて仕切り直しである。

具体的には「美人は得」で「醜いと損」と著者はいいなおす。そして、現実での自分が女性から、顔で判断したのだろうと詰められたエピソードや、美醜ではないが身内の病気に関するエピソードを展開する。そして、「醜い顔は損」だという事実から、綺麗事を並べて目を背けることなく、現実は現実として受け入れて生きよ、という趣旨の持論を展開する。私レベルの書き手だとまた反発されそうだが、著者の表現は見事でしかなく、その根拠は論理的に明確で、納得のいくものであった。

この本は、綺麗事や当時の流行の言葉にのって、ことの本質を現実を見失うな、目を背けるな、週刊誌(当時は週刊誌がメインが流行発信の場)での流行の言葉に踊らされるな、と”週刊誌”の連載でいっているのである。

この本は著者がいくつかのテーマを掲げて、著者の意見が披露される構成である。特に秀逸なのは、上記の難しいテーマである「美醜について」以外だと、あとがきで書かれている方の指摘通り「教養について」の話。

このテーマを読んだら、『「教養」など人生には不要』と言い切るのは浅はかだと思えてくる。勿論、著者が考える「教養」の定義と、不要だという人の「教養」という言葉の定義が違う可能性があるため、他人の意見を否定するつもりはない。ただ著者のいう「教養について」の話を読んでしまったら、簡単に「教養など不要」とは恥ずかしくて言えなくなってしまうだろう。

「教養について」のなかで触れている「読書について」も秀逸。まさに著者のいう通りで、これまた読書について考えさせられる。曰く、著者がいっていることを信じるな、読書は著者と読者との討論である、そのまま信じるのもいかがなものか?という趣旨だ。ほか、「自由について」もいい。自由とは反対の意味の「宿命」、そして自由についてまわる「責任」について論じており、これまた秀逸。

さて、繰り返すが、この本自体は昭和30年~31年に書かれたことがベースである。その時代は戦争が終わってまだ間もないころであり、特に女性が外にでて仕事に就くこと時代が稀な時代で今とは違うから、そこは昭和30年代のことを話していることを頭にいれたうえで読まないと「現在では意味がない」と本の途中で反発して本を閉じてしまう人もいそうだ。

だが時代が違うからと言って、この本を読むのを辞めるのは勿体ない。どうしても感情的に反発してしまうならば、本棚にしまっておいてもいいと思う。著者のいいたい価値観や考え方は、時代が移れども今でも参考になるはずだから。

そもそもこの著者の本が出版されてから約70年以上経過しても、販売されている理由は著者の指摘することが、その表現が、その知性が今でも通用するからではなかろうか?そして、なによりあとがきで書かれているように、綺麗事で「よしよし」されるだけでなく、現実をみて「しっかりしろ」と尻をひっぱたいてもらえるような本を読みたい人や時がいつの世もあるからだと思う。

正直、この本の書評は難しい。そのまま転載するのは駄目で、とはいっても要約すると自分と著者との理解力や文章力、知性の差が露骨にでてしまうので難しいのである。

書評を書くかどうか悩んだ本。それでもこの本を読んだことを記録したい、この本について触れておきたい、そして後になって見返したいから記録に残しておきたい本である。

著者の圧倒的な知性に裏付けされた表現がわかりやすい文章。そこに聞いたことのない日本語を用いて批評する批評家や学者とは一線を画す。だが、今の文字の大きくわかりやすく1時間やそこらではわかることはできない本。

さて、タイトルにあるとおり、著者は「幸福」について述べているが、ここでは触れない。ネタバレになるし、本全体を読んでこそ意味がある。幸福とは〇〇である、という格言のように一言でまとめるものではない。ぜひ読んで確認してほしい。

最後に、著者の知性に触れることができたことに、そして2026年になっても販売していた出版社と本屋に感謝して書評を締める。

情報を感情込みで仕入れるから、心理的な負担になるのだ。

前回の記事の続き。

前回、「自分は情報を取り過ぎているのではないか?」という疑いを書いた。

だが、なにかが足りない。ただ、情報を遮断すればいい、というわけではない。情報過多は良くないのだが、それだけでは言葉足らずだ。

そして、今朝、何が足りなかったのが感覚的に気が付いたので「緊急で動画を回しています」←ところで、これ皆いっているけど本当に緊急なの?

ゴホン。話がそれた。動画ではなくて、ブログで書きます。

「自分は、他人の感情が入った情報を、他人の感情入りでとっているのではないか?:といったほうが正しい。

情報は事実だけでよい。他人の感想を含めてその情報を取り入れるから、その情報を知って不快な気分になるわけだ。

例えば的外れなコメンテーター、頓珍漢なコメンテーターの意見を聞いて不快になる。

事件や事故に対して怒っているコメンテーターを見て、自分も怒ったり、または自分が怒られたのだと認識して、反発したり恐れたりする。

このコメンテーターは、SNSでの発言、YouTubeの出演者の発言でも同様である。

つまり、他人の負の感情が入った意見を見て、相手の負の感情が自分に向けられていると感じるか、相手の負の感情に影響されて、自分もその他人の負の感情をもってしまっているわけだ。

よくよく考えてみれば、他人の意見は意見であり、「へ~、そう考えるんだ」で終了する話である。他人の考えと情報をごっちゃにするから、他人の考えに影響される。自分の考えと情報の線引きができていないから、情報が不安や恐怖や怒りの対象になる。

後は、災害や事件のニュース。恐ろしい話だし、被害にあわれた方は気の毒だし、お悔やみ申し上げる。ただ、自分にもその災難が降りかかるかは別。そして、その災難が降りかもしれないと予測していても、いつ何時でも避けられるかどうかは別。だから、恐れすぎても意味がない。

水害のニュースを見て自分の住んでいるところでも、同様のことはありうるか、自分の移動する道が災害が起きた時にどうするか?は検討すべきではあるし、例えば、レベル4とかレベル5の特別警報が出た場合は、アンダーパスの道を車で通るのは避けよう、とは思えるが、自分がテレビで放送されるような大規模な災害に会う可能性はかなり低いし、今怯えていても防げるかどうかは別問題だ。1日中、それこそ今年に関しては夏の間ずっとその大雨があったので、それを見ていつも怯えていたら、災害が起きてもいないのに自分がまいってしまう。

情報をとりすぎてもいけないというのは、この水害のニュースを何時間も何日も見続ける、という意味である。テレビは、被害の大きかったところを流す。例えば名古屋の大雨のように、翌日にはほとんど水が引いてしまった地域はテレビでは甚大な被害の映像が物足りないせいかのか、翌々日には報道されなくなった。

テレビはより酷いところを映しているのだから、被害にあわれている地域にお住まいの人たち以外は、ずっと見続ける必要性は薄く、わざわざ困難で心が痛む情報を自らとりにいって心を自分で痛ませている、ともいえる。

起こっている出来事に対しての感想は人それぞれ違うである。なぜなら、自分でその情報に「意味付け」しているからである。「意味付け」すること自体は自然に沸き起こることでもあるが、未来の不安や恐怖や怒りという感情をその情報に意味付けするのは自分自身だ。

そして、その感情の意味付けは、何も自分が思った感情だけではない。他人の考えにつられて、意味付けしているのだ。

さてここに気づいたのは、YouTubeの動画である。

YouTuber通しの意見の対立が、たまたまYouTubeを見ていた時に、おススメにでてきたからだ。

お勧めは謝罪動画であった。とある精神科医が、とある医師について誤った情報と悪口を動画として投稿していた、らしい。そして、悪口を言われた医師は最初は笑いを交えながら反論しつつも、怒りを抑えきれず感極まって泣いた、らしい。そして、その後、悪口をいった精神科医は、謝罪をし、関連動画を削除した、らしい。

らしい、らしい、と書いているのは、私がその肝心の悪口をいった動画を見ていないからだ。だから、コメント欄とか、その後の泣いているシーンとか、謝罪の短い動画しか見ていない。

何が起こっているかはわからない。わからないと意味不明な謝罪動画なので、第三者の精神科医の動画を含めて関連動画を色々と見たが、それでも悪口をいった張本人が動画を削除しているし、第三者はその悪口を再現することはない(第三者が悪口を拡散する形になる)ので、ぼやかして説明している。何を謝罪しているのかすら、よくわからない。結局何が起こったのか、争いの発端すらわからない。

そして、その泣いた人は翌日、泣いたのは、感情が高ぶると涙がでてしまう体質であって生配信だからそのまま動画として流れてしまった、悪口をいった精神科医に対しては色々言いたいことはあるが、かといってそれを見た視聴者が、相手の動画のコメント欄で義憤に駆られてコメントすると、その相手方の精神科医の医療に関する動画を見ている患者さんたちは、自分たちが攻撃されてる、非難されているかのように勘違いされるので、相手の精神科医の動画のコメント欄で自分の肩代わりのような攻撃はやめてほしい、といっていた。

たしかに、コメント欄は義憤に駆られた人、そして、精神科医が悪口をいったことで、自分に悪口をいわれたと思っている人も大勢いた。そして、コメント欄によって、さらなる口論にもなっていた。当事者抜きで。

そこで気づいたのである。コメント欄に書いている人は、その悪口をいった動画を削除前に見ているからコメントしているかもしれない。だが私はその悪口をいった動画自体を見ていない。わかるのは悪口をいったらしい、ということ、悪口を言われた方がぼやかしつつも感極まって泣いたという動画である。

私も泣いている動画は見ることができたが、他人が名誉を傷つけられて泣いているところを見ると心が痛む。義憤に駆られる気持ちもわかる。だが、私の場合は、肝心かなめのどんな悪口をいったのかその動画を見ていない。だから、ただの感情メインの動画でしか見て内々。悪口に理があったとしても、悪口であったならばそんなの必要ないとは言えども、もともとが意見の対立から悪口に発展してしまったのか、医師、YouTuberとしての価値観の違いなのか、単に相手が嫌いなのか、区別がつかない。

そして、肝心なところ。私は、当事者ではないのである。肝心の動画も見ていないのでもともとの情報を知らない。そして謝罪動画だけのコメント欄を見ることができる。そうすると他人事であるので、ふと思うのだ。

「あれ?これは、内容自体でなく、感情的なことで話が進んでいないか?」と。その内容自体をコメントしている人もいれば、感情的な対立になってしまったことで情報自体よりも、それぞれの感情のほうに影響されてコメントしていると。他人事だが、私もおそのコメント欄の感情に自分の心が動かされているのを感じている。

しかし、そもそもYouTubeのおススメに謝罪動画が上がってこなければ、そしてその動画を見なければ、その話自体を全く知らないで終わっていたのである。

ちなみに、私が昨日YouTubeを見たのは、インターネットの光回線のセールスの神のパンフレットが届いたが、内容が意味不明だったので、YouTubeに解説動画がないか探していた時に、右側にその謝罪動画がおススメで表示されているのが目に入ったから。そして、「何を謝っているのか?」と気になって見ただけであり、自分から主体的にその情報を手にいれようとしたわけでもない。そもそも、その2人の医者のYouTubeのチャンネル登録をしていもない。謝罪動画をみたのは、全くのたまたまである。

だが、なにか義憤に駆られてしまった。コメント欄に心が動かされてしまった。そこで気づいたのである。情報が正確につかめていないのに、他人のの感情込み、ここではコメント欄での感情込みの話で、その義憤に駆られた感情を自分の感情と認識してしまったことに。そして感情だけで、情報としてわかったつもりになっていたことに。(念のためにフォローしておくが、私が見た限りはコメント欄に、あからさまな誹謗中傷は殆どなかったと思う。かなりのコメント数があったので全部は読んでいないが。)

一日たって気づいたが、要するに自分は当事者でもない。チャンネル登録者でもメンバーシップ会員でもない。なにより謝罪し、該当動画を削除、非公開にしたことでもう視聴者としては解決した問題である。(張本人が直接コンタクトを取るかどうかは不明だし、相手が許そうが許さまいが、関係が断絶しようが、そこを一視聴者が知る必要もなかろう)肝心の動画を見ていないので、どんなことを言って、謝罪したかも、その経緯もわからないし、どういうニュアンスで悪口を言ったのかもわからない。中身もわかっていない情報を義憤の感情メインで受け取ってしまっている自分に気づいたのである。

感情込みで情報を得るから、ストレスになる。たとえ他人の感情込みでなくても、だれかの感情を害すのではないか?という疑い込みで情報を得ると、たとえば赤の他人が歩いているだけでも、「その赤の他人は自分の家に不法侵入してくるのではないか?」という予想を建ててしまうと、ただ歩いている赤の他人を見たことですら、不安材料となる。

情報に感情をいれない。情報に予想をいれない。情報に正義か悪かなどの自分の判断をいれない。情報自体が悪いのではなく、そこに感情や悪い予想を入れるからストレスになるのである。

私はネットやテレビなどで情報を取りすぎなのではないか?

最近、思うことがある。

「自分は情報を取り過ぎていて、それがストレスになっているのではないか?」と。

この記事の前の記事は、そのせい。ネット記事やSNSで炎上していたのを見た結果の私見である。よくよく考えてみると、私は当事者ではない。学歴差別の動画も、障害者を見世物にしたような漫画も、私はどちらも見たことがない。見ようとも思わない。私が発言して、他人の言動に意見しよう、もっといえば行動を自分の考えている通りにさせよう、と思うことではない。

「どうでもいい」ことだとは思わない。由々しき問題であり、被害者もいるし、スルーしていいとはいえない。ただ問題の解決は当事者がする事であって、私がどうこういう筋合いはない。だが、一度、その記事を目にしてしまってから頭から離れないので、一旦このブログでかいてすっきりさせたかったのが本音である。

意見をいいたい、というよりも、頭のなかのモヤモヤやイラつきをブログで吐き出すことで頭をすっきさせてモヤモヤを解消させたかった、というのが本音である。SNSで吐き出すと、誹謗中傷になる可能性があるので、一旦落ち着かせてからブログに書いているが、その間、頭のなかの一部をそのモヤモヤが占領していた。

要するに、私は情報、時事ネタを取り過ぎているのだ。「情報弱者」というのは、ネット界隈ではよくいわれていることだが「情報過多」という状態も良いとは思えない。

その前に書いたワイドショーもそうだ。ワイドショーは、不安を煽る、トラブルを探す、けしからん人間を探す。

SNSの炎上やこたつ記事もそうだ。けしからん奴を探す。怒りを誘発する。正義感、倫理観を揺さぶる。スルーするのは人としてどうなのか?と思ってしまうが、皆がよってたかってリンチをするのもまた問題である。

 

かつて、とある新書で、現代は本を読まずにSNSなどで「ノイズ」を削って、限定された「情報」だけを得ることになっていると指摘している著者がいた。

私は、その「情報」も有益な情報よりも、「怒りや不安という感情を揺さぶる情報」が取り上げられすぎているのではないかと思う。

果たして、その「感情を揺さぶる、けしからん人間の情報」は必要な情報で、それを知ることが「情報強者」なのか?と思う。

自分が生きる上で、テレビやネットで知るべき「情報」など限られていて、他のほとんどの情報のほうが「ノイズ」なのではないか?テレビで知るべき情報は、極端な話、自分の地元の天気と、数分にまとめられたニュースで十分ではないか?

別にネットだけではない。テレビの情報番組を見て、それを知ってどうするんだ?という情報が多い。単なる旅行先や飲食店の宣伝に過ぎない。痛ましい事件ばかりを移したところで、どうするんだ?と思う。個人ではどうにもできない不幸をかみしめるために、または営利企業の広報活動を見るために、テレビを見ているかのようだ。

ネットで言われる「情報弱者」は、不要なものを買い、高い商品を交わされていることに気づかない人をいう。

だが「情報」をしいれてばかりのほうが、自分の人生の大切な時間を奪われている、別の意味での「情報弱者」になっているのではないか?と。

というわけで、最近私は、古典のような本を読んでいる。時事ネタではない、最近のはやりではない古典のような本を探して読んでいる。

前に、iPhoneの新商品発売で、スマホはapple一択ではないのでは、という記事を書いた。apple一択だと思い込んでいたほうが、またスマホの最新機種の情報を仕入れるのが情報強者だと思っていたが、使わない機能、違いがわからない機能に多額の金をつぎ込むほうが「情報弱者」なのではなかろうか?

もっと踏み込んで、スマホ自体、もう通信通話とバーコード決済などの自分が使う機能だけできればいいのではないか?とまで思っている。デトックスというやつである。

スマホのデトックスをするのならば、スマホは極力触らないほうがいい、触りたくなるような衝動にかられる機能がないほうがいい。だから、そんな36万円どころか、20万円越えでなくても、最新のものでなくても、十分な機能がそろっている機種はたくさんある。わざわざ今持っているものを捨てる必要はないが、壊れかかったときは、今度は最新のハイエンドスマホではないものにしようかと思っている。

とある漫画のアニメ化に関する私見

ちょっと前に、エンタメが人を傷つけてもいいのか書いたのは、前回の大学生に対する差別的発言と、「み〇ちゃんと山〇さん」というマンガのアニメ化に関することについて、「エンタメ」といえば、誰かを傷つけてもいいのか?という疑問であった。

あれから時間がたったので、大学に関しては昨日テーマにしたので、今度はこの漫画について絞って私見を述べたいと思う。

一旦改行する。

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学歴についての私見

もう一月前の話であろうか。YouTubeのチャンネルのとある動画がとある大学の大学生を差別しているとして炎上騒ぎになっていた。

炎上時に書くのは、なんだから炎上に便乗したようで、炎上にさらに燃料を投下して広げているSNSのインプレッション稼ぎや、まとめサイトや、こたつ記事にのせられているようで、あえて書かなかった。

時間が経過したので、ここで私見を書く。一旦改行する。

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ワイドショーの話(後編) 嫌でも映っているテレビへの対処法はあっさり解決へ

しつこいようだが、ワイドショーの話。前編中編後編の最後。

前編で、ワイドショーのコメンテーターは、コメンテーターとして呼ばれている以上、何らかの自分の意見を言わなければいけないらしいことについて書いた。

中編で、だからといっても、ワイドショーのコメンテーターの話の内容は、専門部門だったり、よく取材をしていたりしている場合はともかく、頓珍漢で、的外れで、時に自分の考えと一致しない人を見下す、SNSの炎上狙いのコメントと大差ないと書いた。

さて、後編。

そこまでいうなら、「嫌なら見なければいい」。という反論がありそうだ。まさにその通りである。見たくない。そのチャンネルをかけたくない。

だが、家族が、朝ドラが終了する8時15分になったら、すぐに、テレビ朝日にチャンネルを変えるのである。「変えてくれ」と何度となく頼んだが、変えてくれないのである。この家族は、お笑い芸能人が明石家さんまと所ジョージ以外は大嫌いである。

よって、8時15分にそのままお笑い芸能人がMCをしているNHKを見るのが大嫌いなのである。他のチャンネルもお笑い芸能人か、エンタメと評する宣伝がながれて、選択肢がないそうなのだ。

私が、ワイドショーが大嫌いなように、家族はお笑い芸能人が大嫌いなのだ。

だったら、テレビなんてつけなければいい。だが、朝食をと8時から外出するまでの9時までに無音になるのがいやらしい。後、テレビに表示されている時計にあわせて行動するので、テレビの時計が見たいらしい。

というわけで、私がこの家庭にいる以上は、ワイドショーは、嫌でも映っているのである。私も、別に他の番組を好んでいるわけではない。時計代わりでしかないのだが、不安を煽り、トラブルを報じ、衝撃的な動画を垂れ流し、今は雨天災害をNHK以上に過剰なまでにアナウンスする。知ったかぶった芸能人やコメンテーターが、一般人に対処法を伝授する。

不愉快極まりない。

かといって、昨今は残業規制とかあり、定時より早く出社すると上司の目が厳しい。残業しているわけではないが、タイムカード上は、パソコンの起動時間上は、早く出勤していることになるので、早めの出勤ができない。

いっそ、この家からでていこうかと思っていた時のことである。

どうしたものかと職場の人にそんな話をしたら、あっさりと回答が返ってきた。

「8時15分より前に家をでて、出勤時間までに喫茶店にでもいたら?そこで何かしたら?」

解決である。

他人の意見は聞くものである。