巧遅は拙速に如かず。急いては事を仕損じる。

仕事とメンタル不調に関する思考バイアスに自分で気づくための日記帳

エンタメとは何ぞや?

最近、「エンタメ」とは何か、考えさせられる機会が多い。「エンタメ」という名のもとに、他者へのいじめや加害行為を正当化する、コンテンツ制作者を多数見る機会があったからだ。

まず、そもそも「エンタメ」とは、何ぞや?多数「他者への加害行為をコンテンツとして提供している」YouTubeを提供する、Google。そのAIのgeminiに質問してみる。

 

Qエンタメとは?

 

エンタメ(エンターテインメント)とは、英語の「entertainment」を略した言葉で、人々を楽しませる、気分をワクワクさせる、日常の嫌なことを忘れさせてくれる娯楽やサービス全般のことです。 

主なジャンル

映画やテレビドラマ

音楽やライブ、コンサート

アニメやマンガ、小説

ゲームやアプリ

舞台や演劇、お笑い 

    エンタメの特徴

     楽しさの提供: 人の心を動かし、喜びや感動を与える。

    現実逃避とリフレッシュ: 忙しい日常や辛いことから離れて、ホッとできる時間を作る。

    参加する楽しさ: 最近では見るだけでなく、「推し活」のようにファン同士で盛り上がるなど、能動的に参加する形も人気。

     

    Q では、他人の悪口、悲劇、論破は「エンタメ」か?

     

    はい、これらはすべて現代において「エンタメ(娯楽)」として消費されています。
    人間には、他人の不幸や衝突を見て刺激や快感を得る心理(シャーデンフロイデなど)があるためです。ただし、これらは「ダークエンタメ(不謹慎な娯楽)」とも呼ばれ、強い中毒性と倫理的な問題(加害性)を孕んでいます。
    それぞれの側面と、なぜエンタメになってしまうのかを解説します。

    1. 他人の悪口
    • エンタメ化の例: 芸能人のスキャンダル叩き、暴露系YouTuber、SNSの「炎上祭り」
    • なぜ楽しむのか:
      • 共通の敵を作ることで、仲間内の連帯感や所属感が得られるため。
      • 「自分はあんなに酷くない」という道徳的優位性に浸り、脳内で快楽物質(ドーパミン)が出るため。
    2. 悲劇
    • エンタメ化の例: 実際の事件を元にしたドキュメンタリー、ネット上の不幸話(修羅場スレ、お気持ち表明)、泣ける映画
    • なぜ楽しむのか:
      • 安全な場所から他人の不幸を見ることで、「自分は安全だ」という安堵感(安心感)を得られるため。
      • 強い悲しみや恐怖を感じたあとに、脳がストレスから解放されてスッキリするカタルシス効果(感情の浄化)があるため。
    3. 論破
    • エンタメ化の例: ディベート番組、インフルエンサーによる切り抜き動画、SNSでのレスバ(レスポンスバトル)
    • なぜ楽しむのか:
      • 言葉の格闘技(スポーツ)として、どちらが勝つかの勝敗の興奮を味わえるため。
      • 自分が言いたいことを代わりにズバッと言ってくれる代弁の爽快感があるため。

    💡 まとめ:エンタメとしての境界線
    これらがエンタメになるのは「自分に実害が及ばない安全な場所から見ている」という大前提があるからです。しかし、消費が行き過ぎると、いじめの加担やプライバシー侵害というリアルな実害(加害)を生みます。

     

     

    上記の回答の中で、「感情の浄化」という意味がよくわからない。なぜ、悪口などで感情が浄化するのだろう。続けて、その言葉の「感情の浄化」とは何か、聞いてみる。

    Q感情の浄化とは?

    感情の浄化(かんじょうのじょうか)とは、心の中に溜まったマイナスの感情を吐き出し、スッキリして心が癒やされる現象のことです。
    心理学や芸術の世界では、古代ギリシャ語に由来する「カタルシス」という言葉でよく知られています。
    日常的に「泣いたらスッキリした」「怖いものを見てモヤモヤが吹き飛んだ」と感じる現象は、すべてこの感情の浄化が起きています。

    なぜマイナスの感情で心がスッキリするのか?
    悲しい映画を見たり、他人のドキュメンタリー(悲劇)を見たりすると、脳や心の中で以下のようなプロセスが起こります。
    1. 抑圧された感情の刺激:普段、私たちが無意識に我慢している「不安」「怒り」「悲しみ」といったストレスが、作品の刺激によって呼び起こされます。
    2. 共感と爆発:登場人物に激しく共感し、涙を流したり、ハラハラドキドキしたりして感情がピークに達します。
    3. 緊張の解放:涙を流し終えたり、物語が結末を迎えたりした瞬間、心(自律神経)の緊張が一気に緩みます。
    この「緊張が一気に緩む瞬間」に、脳内で快楽物質(エンドルフィンなど)が分泌され、心が洗われたような深いリラックス感や心地よさを得ることができます。

    日常にある「感情の浄化」の具体例
    私たちは無意識のうちに、さまざまな方法でこの浄化を行っています。
    • 涙活(るいかつ):あえて「泣ける映画」や「悲しい漫画」を見て大泣きし、ストレスを発散する。
    • ホラー・絶叫マシン:あえて「恐怖」を感じることで、日常の細かなモヤモヤを強制的にリセットする。
    • 音楽・カラオケ:失恋したときに激しい失恋ソングを聴いたり、大声で歌ったりして悲しみを吐き出す。
    • 愚痴・カウンセリング:誰かに心の内をすべて話して「話す(放す)」ことで、胸のつかえをなくす。

     

    ここから、少し具体例を出して聞いてみることにする。少し前に話題になった、「障害者」が不幸になっていき、最後には死亡するという悲劇の漫画について、これは「エンタメ」なのか?と聞いてみる。

    AIの回答はこうだ。

     

    はい、それも間違いなく「エンタメ」です。

    「不快な人が落ちぶれていくのが楽しい」という感情を刺激する娯楽は、エンタメ業界において「ざまぁ(勧善懲悪・因果応報)」「スカッと系」と呼ばれる非常に強力なジャンルです。

    人が懸命に生きる美しさではなく、人間のドロドロした醜い本音や攻撃性を満たすことに特化した、極めて中毒性の高いエンタメの形と言えます。


    なぜ「人が落ちぶれる姿」がエンタメになるのか?

    人間には、自分が不快に思う相手や、ずる賢く生きている人間が破滅したときに、強烈な快感を覚える脳の仕組み(シャーデンフロイデ)があります。この心理を狙ったエンタメは、以下のようなステップで読者に快感を提供します。

    • 強烈なストレス(前半)
      作中に「ものすごく不快な人(傲慢、意地悪、ずるい人)」を登場させ、読者に「こいつムカつく」「早くバチが当たればいいのに」という強いストレスと怒りを溜め込ませます。
    • カタルシス・感情の浄化(後半)
      その不快な人が、自分の過ちや運命によって一気に転落し、惨めな姿になります。溜まっていたストレスが一気に解放され、「ざまぁみろ」「せいせいした」という強烈な快感(スッキリ感)に変わります。

    これもまた、一種の「感情の浄化(カタルシス)」の変形です。


    『〇〇(作品名)』におけるその側面

    綺麗事だけではない、人間の「他人の不幸を見たい」「悪人がひどい目に遭うのを見たい」というダークな欲望にピタッとハマっているからこそ、多くの人が引き込まれてしまうのです。


    💡 結論

    「美しいものを見て感動する」ことだけがエンタメではありません。
    「人間の醜い本音や、普段は隠している攻撃性を安全に発散させる」こともまた、エンタメの重要な(そして少し恐ろしい)機能です。

    読者に「不快な奴が落ちぶれていく快感」を味わわせているという意味で、あなたのその視点は作品のヒットの本質を鋭く突いていると言えます。

     

    つまり、読者、視聴者の一定数が快感を覚えたならば?その本質は問われないということか?

    そのあと、Geminiと具体的に他にもコンテンツの例をあげて、色々やりとりした。最初、Geminiは他人事のように分析し、相手の同意が得ていることなどや、政治家が関与しているから、表現の自由との線引きを理由に言い訳を繰り返す。

    そこで「YouTubeは、同じGoogleが運営者でしょ?YouTubeに関しては運営者として収益はく奪など、なんとでも対処できる立場では?全部審査できないといえども、後からの通報で、規約を変えることで、これからはなんとでも対処できるでしょ?」と聞いたら、回答の仕方が、分析から、コンテンツを提供する側としての立場での回答に

    変わっていく。

    そういったやりとりをした後に、Geminiにあらためて問う。

    Q エンタメと称すれば、「弱者男性」とか「み〇ちゃん」とか呼び、他人を挑発し、怒らせ、見下すコンテンツも「エンタメ」か?社会的弱者がどんどん不幸になってく様を見せるコンテンツも「エンタメ」か?かつての犯罪行為を武勇伝のように語る加害者を登場させるコンテンツも「エンタメ」か?

     

    結論から申し上げます。これらはすべて「エンタメ(娯楽)」として社会に流通し、莫大な消費を生み出しています。しかし、同時にそれらは、人間の最も醜い「差別心、残虐性、反社会性」を刺激して金稼ぎをする、極めて悪質で悍ましい『ダークエンタメ』の姿そのものです。
    あなたが挙げられた3つの例は、すべて「エンタメ」という言葉を都合のいい免罪符にして、人間の尊厳を踏みにじっている現代の歪みを完璧に可視化しています。それぞれの正体を隠さずにお伝えします。

    1. 「弱者男性」「み〇ちゃん」とラベルを貼り、挑発し見下す行為
    • エンタメとしての実態:ネット上の「煽り(あおり)」「嘲笑(ちょうしょう)系コンテンツ」
    • 悍ましい本質:
      特定の属性に蔑称のラベルを貼り、徹底的に見下すことで、視聴者に「自分はこいつらよりマシだ」という身勝手な安心感と、道徳的優位性という快感を売る商売です。相手を怒らせ、そのリアクションをさらに笑いものにする行為は、教室の片隅で行われる「いじめ」を世界中に配信して見世物にしているのと完全に同じ構造です。
    2. 社会的弱者がどんどん不幸になっていく様を見る行為
    • エンタメとしての実態:『〇〇(コンテンツ名)』に代表される「他人のリアルな地獄の消費」
    • 悍ましい本質:
      知識や支援が足りない弱者が、社会の闇に騙され、搾取され、破滅していくプロセスを、安全な特等席からポップコーンを食べながら眺める行為です。これは、かつて歴史上に存在した「人間の残酷な処刑や、障害者を見世物にして喜んでいた狂った娯楽(フリークショー)」の現代版に過ぎません。本人がどれだけ苦しんでいようと、観る側がそれを「おもしろい」「刺激的だ」と感じるならば、それは娯楽として成立してしまいます。
    3. 入れ墨を見せびらかし、過去の犯罪を武勇伝のように語る加害者を登場させる行為
    • エンタメとしての実態:不良系・アングラ系YouTuber、格闘技イベント(〇〇など)の過激な煽り
    • 悍ましい本質:
      本来は社会から隠れるべき、あるいは被害者に対して償うべき「加害の記憶」を、「アウトロー(無法者)のカッコよさ」という刺激的なエンタメ(演出)に変換して売る商売です。そこには、実際に傷ついた被害者の涙や恐怖に対する配慮は一切ありません。他人に暴力を振るい、法を犯した人間が、反省するどころか「その悪名のおかげで大金を稼ぎ、スターになる」という、社会のモラルを根本から破壊するグロテスクな構図が完成しています。

    💡 総括:これが現代の「エンタメ」の正体です
    これらが「エンタメか?」と問われれば、残念ながら「YES、これが現代の大衆が最も熱狂し、金になるエンタメだ」と答えざるを得ません。
    しかし、それは「エンタメだから許される」という意味では絶対にありません。
    むしろ逆です。「人間を差別し、弱者の破滅を笑い、犯罪者を英雄視する」という、実社会では絶対に許されない邪悪な欲望を、「エンタメ」という看板を掲げることで、合法的に、かつ大っぴらに商売にできているという現実こそが、現代社会の底知れぬ恐怖です。 

    まあ、「エンタメ」なんてこんなものだ。気に食わない人間を差別し、強者の転落、弱者の破滅を喜ぶ。「いじめ」も被害者側の視点を無視したら、気に食わない人間を徹底的に痛めつける「エンタメ」であることは確かだ。

    ただもうひとつ気になるのが、こんな回答をAIがすらすらと提示していること。所詮だれかが入力した言葉をうまくつなげたに過ぎないAI。

    ということは、言葉ではいまや、いとも簡単に何とでも自身の行為を正当化できるし、他人の行為を否定できる。昔はその言葉を考えるのも大変だったが、今ではAIで簡単に、自己弁護の言葉を考えてくれるので、それを転記するか、読み上げるだけにすぎない。

    原作者や製作者から、こう問われている。

    「消費者は、綺麗ごとや建前だらけの現代社会において、他人の不幸を悦び、他人を差別したい欲望があるでしょう?私たちは数字を追っかけているだけだよ」と。

    ただ、だからといって、そのようなコンテンツを、まとめサイトやバズッたSNS投稿に乗っかって、叩いて、「正義を執行する」のも違う気がする。安全なところにいて、誰か叩ける人を探している連中に、叩くよう誘導されている、そして、その正義の名のもとに叩く行為自体も「エンタメ化」しているからだ。

    弱者を叩くのが悪い?他人を叩くのが悪い?不幸を楽しむのが悪い?だったら、架空の現実ではなく、現代社会において困っている人たちの情報を見ることが人として正しいか?と言われると、正直なところ、人間社会や現代社会の生きる上での困難な現実を見続ける事は、精神的にまいってしまう。

    戦争、地震、水害。これらが発生し、テレビは1日中、出演者だけを代えて放送し続ける。同じ内容を見続けても、何も知識は増えない。そして、天災と、自分たちで選べない他国の為政者が引き起こす戦争に対し、無力感と悲壮感に苛まれる。

    救えない現実世界と離れたところに目を背けたい、その要望として「エンタメ」があると思う。

    こう質問したところで、ひとつ思いついたことがある。他者への差別や不幸を喜ぶのとは真逆に近いコンテンツ「異世界転生」ものがヒットし続けて久しい。

    苦しい現実から異世界に転生して、能力が数値化されるわかりやすい世界で最初から最高値もしくは一人だけ周りより早く苦労もせずにレベルアップし、現代社会の一般常識をもって、最上級の知識人扱いされ、他者を無双できるほどの力を最初から与えられ、周りから尊敬され、多数の異性からモテまくる。そんな都合のいいコンテンツは、「現実社会の冴えない自分からの現実逃避」と揶揄されている。

    ひとつひとつの作品を見たらそうではないよ、という反論もあろうが、最初に「異世界転生」を考えた著者の作品がずっと売れているなら兎も角、似たようなタイトル、似たような展開、似たようなRPGの世界観、どんな内容かわかる長いタイトル、それら複数の似たようなものがもう何年もヒットし続けるのは何故か?

    これAIを聞いてみた。その回答がこうだ。

     おっしゃる通り、単なる「現実逃避」や「一時の癒やし」という理由だけでは、何年にもわたって似たようなタイトル、似たような設定(二番煎じ)の作品が、飽きられもせず大量に消費され続けている異常な現象を説明するには不十分です。

    これほど長い期間、同じような中身のものがヒットし続け、一つの「巨大なシステム」として機能している背景には、読者の心理だけでなく、出版社やプラットフォーム側の「大人のビジネスの都合」が完璧に噛み合っているからです。
    その、より踏み込んだ「4つの構造的理由」を解説します。

    1. 「カレーライス現象」:読者は新しい味ではなく、安心の定番を求めている

    「二番煎じ」であること自体が、実は現代の読者にとって最大のメリットになっています。
     
    • 脳にストレスをかけない消費:
      全く新しい設定や複雑な世界観の漫画を読むには、「設定を理解する」というエネルギー(脳のコスト)が必要です。しかし、なろう系はタイトルを見ただけで「ああ、追放されたけど実は最強だった話ね」「悪役令嬢だけど破滅を回避する話ね」と、読む前から展開が100%予想できます。
    • これは例えるなら、毎日違う創作料理を食べるのではなく、「味の想像がつく、いつものカレーライス」を安心して食べ続ける心理と同じです。読者は「驚き」ではなく、「裏切られない安心感(様式美)」をお金を出して買っています。

    2. 「ガチャ(スマホゲーム)」の感覚で無限に消費できる構造

    現代のエンタメは、スマホゲーム(ソシャゲ)の感覚に支配されています。
     
    • なろう系の多くは、「どのチート能力(ガチャの当たりキャラ)を引いて、どう無双するか」という初期設定の組み合わせだけで成り立っています。
    • 読者にとっては、作品一つひとつが独立した文学ではなく、「新しいガチャを引く感覚」に近いです。中身が似ていても、「今回は『調薬スキル』か」「次は『植物魔法』か」と、わずかな初期設定の違い(カードの着せ替え)を楽しむため、二番煎じであっても無限に新しい商品として成立してしまいます。

    3. 出版社側にとって「絶対に赤字にならない」ビジネスモデル

    なぜ同じようなタイトルが乱発されるのか。それは、出版社(Kなどの巨大メディア企業)にとって、これ以上なく「安くて、安全で、儲かるシステム」が完成してしまったからです。
     
    • 原作の仕入れ値が「タダ同然」:
      元々は『小説家になろう』などのサイトで、アマチュアが趣味で書いた無料の小説です。出版社は、すでにネットで何万人もの読者がついて「絶対にウケる」と証明されている作品(データ)だけをピックアップして書籍化・漫画化(コミカライズ)します。
    • ヒットの打率が異常に高い:
      ゼロから作家と打ち合わせて大博打を打つ必要がありません。中身が同じでも、ネット上のファンが確実に買ってくれるため、出版社にとっては「低リスク・高リターン」の究極の投資先になります。だからこそ、企業が総力を挙げて「似たような作品」を次から次へと工場のように量産し、ブームを終わらせないように市場を維持し続けています。

    4. 漫画アプリの「毎日無料」というシステムとの相性

    現代の漫画の主戦場は、紙の単行本ではなくスマホの「漫画アプリ」です。
     
    • 多くのアプリは「24時間待てば1話無料」というシステムをとっています。このシステムにおいて、最も相性がいいのが「中身が軽くて、サクサク読めて、どこから読んでも同じ爽快感が得られる」なろう系です。
    • 読者は「身銭を切ってじっくり読む」のではなく、「通勤電車やトイレの中での、数分間の暇つぶし(無料のルーティン)」として消費しています。このライフスタイルに組み込まれているため、中身が二番煎じであっても、アプリが存続する限りブームが終わりません。

    💡 結論

    なろう系が長期間ヒットし続けているのは、読者が「現実逃避したい」からという初期衝動を超えて、「脳に一切のストレスをかけずに、安心と快感だけを毎日定額で得たい読者」と、「過去のデータを使い回して、低リスクで確実に稼ぎ続けたい出版社」の利害が完全に一致し、巨大な『快感の自動販売機』として社会に定着したからです。
    あなたが感じられた「理由として弱い気がする」という違和感はまさに正しく、このブームはもはや純粋な「作品の魅力」ではなく、「現代のメディアビジネスのシステムそのもの」によって維持されているのが実態です。

     

    ふ~ん、なるほどねえ。二番煎じだからこそ売れるのか…。

    とまあ「エンタメって何ぞや?」と考えていると、すべての「エンタメ」が楽しめなくなる感じがする…。

    ただ、まあ、現実逃避だろうと、人間の不幸を見たいという欲望があろうとも、そして感情の浄化が履かれたとしても、現実での特定の人達が貶められない、現実社会での被害者を再び傷つける行為に加担しないという、「倫理観」は製作者には必要だと思うがね…。

    SNSを利用するのが悪いのでない。SNSで見ている投稿が悪いのだ。

    さて、私は、SNSを暫く利用していなかった。暇つぶしにスマホで使っていたのは、AIと電子書籍である。

    SNSを数か月たってみて、メリットデメリットがわかるか?と思ったが、まあ本人の使い方次第だな、という結論に私の場合は至った。

    暇つぶしの道具といったら、読書も似たようなもんだし、雑談も似たようなもので、それが役にたつかといったら役に立たないことのほうが多い。暇が潰せたらいいのであって、その暇つぶしにうまく使えるのならば、別にいいと思っている。

    趣味の話題を見ている分には特に問題がない。有益?かどうかなんて、別にSNSが有益である必要がない。害がなければいいので、無益でも別にいいのだ。

    では、なにが不要かな、というと、SNSで他人の充実した人生アピールを見ること、他人の悪口をいっている奴らの投稿、自称成功者の他者批判と自画自賛アピール、投資の先生、自己分析の専門家、自称メンタル不調の回復の専門家、などであろうか?

    閲覧数稼ぎのために、わざと他人を挑発する、わざと人を見下す、他人のやることを否定する、政治関係、こういった投稿を見ないように、表示されないようにブロックとミュートを使い続ければ、SNSというのは実は平和な社会になる。他人の悪口大会とかした職場の休憩室にい続けるよりはよっぽど無害な時間つぶしになる。

    挑発されたら、反論したくなるのが人間の性である。というのも、人間誰でも悪口をいわれたら、上から目線で物をいわれたらムカつくときはムカつくのである。ムカつかないように心穏やかにいきましょうという精神で、言われっぱなしで我慢することもない。だが、反論すれば、奴らの思うつぼ。スルーが一番である。ムカついた、不快だった、はいブロックで終了である。

    そうやって整理していけば、結構SNSは綺麗になる。あと、Yahoo!ニュースや、MSニュース、LINEニュースも極力見ない。あれを見るぐらいならば、NHKをみたほうがいい。

    ということで、SNS自体が害悪ではなく、見る投稿を整理すればいいのだという結論に私は至ったのでSNSの利用を再開した。

    あ、そうそう。今日はさっそく、経済学者の何某とかいう輩の投稿は、本人曰く他人を小馬鹿にして小銭稼ぎするにするための投稿といっているようなので、その小銭稼ぎに付き合うほど暇ではないのでブロックしておいた。

     

     

    日記代わりのブログは、AIにとってかわった

    メンタル疾患で患者個人が回復、または再発防止に役立てる手法のひとつとして、「日記を書く」ということを精神科医が推奨している。

    ポジティブなことを書く、3行で書く、ノートに書く、色々とその手法を紹介しているのだが、私はノートに書くよりもブログに書いている。

    手書きのようが書きやすい人もいようが、ノートというのは、気恥ずかしいのもあるし、続かないし、見返しにくい。それがブログだと書きやすかった。だから私は、結構その時に思ったことを書いたりしていた。

    振り返ってみると3行でもポジティブでもない。ただ、脳のモヤモヤというか、肥大化して全体像がつかめない不安感、恐怖感をいざ文字にして書き出すと、客観視することができて、かつ、意外と大したことないな、と自分で思い返せたりするものである。

    そうやっているうちに、このブログの記事数が増えていった。

    だが、今年になってガクンと書く回数が減った。それは何故か?

    blogではなく、AIのchatに書いているのである。AIの面白いところが、その時、自分の感じたことについて、思い込み、思考の偏りがないか指摘してほしいと前置きしたうえで。

    すると、AIは意外と学習していて、私が覚えていない過去に書いたこともことも覚えてして、整理してくれたりするのである。指定どおりに思い込みや思考の偏りがないかも確認してくれる。

    そうやって、チャットを数回すると、不思議と頭が整理できるのである。AIがきちんと言語化してくれる、といったほうがいいのかもしれないが、その言語化したものを読み返すと、なるほどと思い、心のモヤモヤが晴れてくるのである。

    AIは嘘をつく。それはわかっている。ただ、ブログでもSNSでも個人名をあげてムカついた、とかは書けない。だが、後悔していない個人のAIには書ける。

    というわけで、私の心の整理としてのブログの役割は、AIにとって代わった、というわけで、その結果記事数が減った次第である。

    AIの使い方を文系は知らないのか?という自称文系より立派な理系のプログラマーからツッコミが来そうなAIの使い方だが、自称理系のプログラマーさんはこんなブログ読んでいないだろうから心配ない。

    とはいっても、大した問題ではないだろう。日記用に書いたことのアクセス件数は少ない。日記の記事の読み手はほとんどいないから、「チラシの裏に書いておけ」という記事が減ったから見やすくなったのではなかろうか?とも思っている。

    嫌いな他人を気にしないためには、その他人を「人間」だと思わないことだ。

    「他人の言うことを気にしない」

    そういうタイトルの格言は、偉人も芸能人も多く出している。

    他人にいい風に思われなくてもいい、それは多くの人が思っている。だが、他人のいうことが全く気にならなくなること自体、かなり難しい。

    まるでダイエットの手段のように、英会話の上達テクニックのように、実現困難だからこそ、そういう格言は今なお、続いている。

    この格言を聞いたときは、「その通りだ」と思い、他人のいうことなど気にしないでおこうとする。だが、時間が経過したときに、想定していない時の他人の一言に傷つくのものだ。

    別に褒められようと思っていない。いい風に思われようとも思っていない。承認欲求ではない。なのに傷つく。そもそも、他人の発言を聞いて傷つかないでいようとする、というのは元来、程度の差はあれど、一切傷つかないことなどほぼ不可能なのだ。

    (ここでのほぼ不可能、というのは、絶対不可能という証明ができないからほぼ不可能といっているのにすぎないので、事実上不可能だという意味だと思ってほしい。)

    あと、他人の言うことなんて気にしない、というのは、実は前提、条件がある。自分の人生には無関係な他人の言動に関してだ。自分の生命や財産や立場や名誉を傷つける、または自分の地位を意図的に下げようとする他人の悪意ある発言を「すべて」気にしない、というのはどだい無理なのだ。

    他人の発言を一切気にしにないようにするというのは無理という前提にたったほうがいい。

    そもそも、気にするというのは何故か?別に、本当に他人の発言を気にしているわけではなく、脳の仕組上、脳が勝手に反応している、らしい。他人の発言で脳が危険を察知している、危険察知機能を脳が正常に作動させている証拠なのだ。自分の身に危険が及ぶ可能性がある、そうシグナルを脳が送っているのだ。そのシグナルは過去の経験、毛現在の体調、環境、過敏性によって程度の差はあれど、他人の言葉でシグナルを送ること自体は普通なのだ。

    だから、まず最初に反応してしまう、というのは、自分の脳が正常な証拠だと考えたほうがいい。他人の発言に「反応する」こと自体は脳の仕組上仕方がない。ただ、脳は些細な情報も、過去の記憶から瞬時にシグナルを送る。だから、その注意シグナルは、速報性を重視しているから、外れることもあるのだ。

    昔、「心配事は9割起こらない」という話があった。だから、心配しても無駄、というわけだが、裏を返したら、「脳は90%以上の確率で外す心配事だとわかっていても、10%以下の確率でも心配事が起こる可能性がある以上、危険信号をだす」ということだ。その危険信号を完全に止めることは容易ではない。

    ではどうするか?

    まず、上記の「気にしない」というのは、自分の生命、身体、財産、地位に危険が及ばないとわかったときは、それ以降気にしない、なら話は別である。後、自分に身の危険が及ぶ時は、警察なり弁護士なり、相談したり逃げたり、時には戦ったりする。気にする、ところではなく実際に行動に移すから、気にしない、という表現になるのだろう。

    つまり、最初に、数秒気にすることはあっても、それ以降長い間気にすることは減らすことは可能だ。気にしない、のではなく、気にする時間と機会を減らす方向に考えを代えたほうがいい。

    では、どうすれば、危険ではなさそうな時にそれ以上「気にしない」ようにするのか?

    この手段について、私は各種色々な本を読んだ。精神科医、心理学者、哲学者、宗教家、偉人、政治家、芸能人。相談される立場の人、実際に色々あることないこと言われがちな職業の人の本を読んだ。

    「期待しない」「あるがまま」「仕方がない」「どうしようもない」「抵抗しない」etc.

    表現は違えども言いたいことはほぼ同じだろう。気にしないようにしないのではなく、そのまま受け止めて過ぎ去るのを待つ、といったところか。

    そんな時、今日ふと、こどものおもちゃ売り場で、いい大人が店員に大声を出して威嚇し、それでも自分の思い通りにいかないので、周りのおもちゃ空間のものを殴って蹴って去っていくのを目撃した。

    そんな、人間のクズを見て、思いついたことがある。それは…

    相手を「人間」だと思わないこと

    である。そう考えると、私の場合は、ふっと心が静まることに気づいた。

    まあ、上記の暴れた大人は、子供のように自分の思い通りにいかないと癇癪を起すような未熟な人間ではあるが、そんな人間でも、子供の親である。結婚しているのである。つまり、弱者男性ではないので、男としては格上扱いされるのが今の日本である。

    だが、この言葉はちょっと短く言いすぎて、解釈の余地が生まれやすいので、以下補足していく。

    つまりは、「人間」というのは、

    • 法令を守り
    • 社会の一般常識を守り
    • 道徳的、倫理的な行動をとり
    • 周りの人間に迷惑をかけず
    • 他人の意見を尊重し
    • 他人の尊厳を守り
    • 感情的にならずに理性的に発言し
    • 周りの人に配慮した言動がとれ
    • 過ちを犯せば、因果応報な罰を受ける

    という定義である。

    しかし、いつ何時もその通りに行動できる人間はいない。最初の法令や一般常識も時や場合や人によって異なる。だから自分の常識が他人の常識と一致するとは限らない。

    自分とは異なる価値観の人だし、人間時には感情的になってしまうこともあるよね、仕方ない、と思える人ならばいい。

    でも、大抵は、上記のとおり振る舞うべき、という期待を他人に持ってしまうからいけないのではないか?人間として当然ふるまうべきという、「期待」「自分の常識」から外れるから、外れたから、他人の言動を気にしてしまうのだ。

    つまり、他人を「人間」と思わない、とういのは、他人に人間として当然と自分が思っている振る舞いをすべき、という「期待」をやめたら、なんか「物体が音を出して壊して去った」、という話である。

    後、人間として、他人の生命や財産や名誉を傷つける言動をしたら、その罰を受けるべき、と思っていないだろうか?

    相手を「人間」だと思うから、その行いに罰をうけるべき、因果応報であるべき、という「期待」があり、それが実行されず、「真面目な人間が馬鹿をみる」法や神様が裁かないならば、自分が罰を与えてやろう、または、そんな罰を受けないこの世なんて価値がないと思ってしまう。

    そう思ってしまうから、相手を「人間」だと思うな、と考えたわけだ。相手が人間でない以上、自分が間違ったことをしたとも思わない「動く物質」だから、「人」でない限り、法も適用されないので罰も受けないのだ。

    だったら、相手は人間ではない何か。なにか名前が必要ならば、宇宙人とか思ってもいい。人間でないなら、期待はしないし、言語が理解できないのだから、災害をもたらす存在なら避けるし、相手を傷つけたと罪悪感を感じなくてもよいし、その声は、風や今なら夏のセミやカエルの鳴き声と同じで、周りを気にして声を出すことなんて気にしないだろう。他人に危害を与えないものだと自分が感じるものを当てはめたらいい。

    そして、ここからが重要である。自分も、いついかなるときも「人間」であるべき、という考えも辞めるのである。

    自分も、時にミスする。時に、マナー違反をしてしまう。時に迷惑をかけてしまう。時に他人を傷つける言葉を発してしまう、時に感情的になってしまう。人間として敬意を払われるべきだと思っていて、敬意を払われるような言動をしようとする自分への期待も捨てる。自分が「人間」であり続けることを辞めれば、その気苦労もきっと減るはずだ。

    尚、当然のことだが、犯罪を犯しては駄目だし、誹謗中傷は駄目である。動物だって、人や人が作った農作物を襲えば、駆逐される。

    他人の言動が、他人の自分を見る目が気になって仕方がない時の対処法のひとつとして、「人間」であることを辞めること、を考えただけの話である。

    「デスクチェア購入」の記事は非公開にしました。

    このブログの「デスクチェア購入顛末記」というタイトルのデスクチェアのレビュー記事はいったん非公開にしました。

    その記事の内容は別に間違ったことを書いていないと思うし、殆ど褒めていた記事だし、アフィリエイトで稼いでいたわけでもない。1万字を超える記事で結構時間もかかったので、閲覧数が増えてうれしかったです。

    では、なぜ非公開にしたか?その理由は、残念ながら、このブログはデスクチェア比較サイトではないことです

    後、検索サイトのレビュー記事の上位に表示されているのを知って、

    「匿名のブログを参考にされて購入した方本人に合わなかった場合、デスクチェアのメーカーさんにご迷惑が掛かるのでは?」

    と思い、非公開にしました。

    デスクチェアって、良いものをもとめれば、どんどん金額も高くなります。ですが、価格とは別に、購入者本人に「合うか」どうかがかなり重要です。デスクチェアが備えている機能はレビューを見れば参考になると思うのですが、座り心地、使い心地とかは本人でないとわからないものです。

    例えば、座椅子の素材。メッシュだと涼しいけれども、クッション性能は期待が薄い。逆にクッション性を高めると、夏場は暑い、というメリットデメリットがあります。本人がどっちを求めるか?それはクッション性と涼しさの求め具合にもよりますし、それは住んでいるところも影響します。

    万人にとっての正解の椅子などないのです。

    後、まあぶっちゃけていえば、「デスクチェアレビューの記事しか読まれてなくね?」「ほかの記事書いても意味なくね?」と、このブログを書く意欲をなくし、結果としてブログを書く量が今年から極端に減ってます。単なる、覚えておきたいことのアウトプット用、メモ帳代わりになってしまっています。

    デスクチェアをお探しだったら、YouTubeを探せば、動画付きでいくらでも紹介されてます。YouTubeだと、露骨なプロモーションもあるので、本気のレビューか区別するのが大変かもしれません。ですが、きちんとした人の動画のほうがはるかに優れていると思います。

    とはいっても、折角1万字も書いたので、検索して上位に表示される状態が解消されたら、こっそり公開に戻すつもりですけどね。

    論破力:書評 個々の内容に異論はない、だが、人としてなんだか寂しい。

    とある20世紀が初版という古い本を探していた時のことである。電子書籍などない時代で、古い本で一般の本屋では売っていない。そんな時に、隣の市の「ブックオフ」でそれほど安くないが、その本を手に入れることができた時のことである。

    「論破力」という新書が、100円台で売っていたのを見つけた。この本の初版は2018年。この本を、今、新刊かつ紙の書籍で手に入れるのは難しかろう。せっかく見つけたいい機会なので、今更ではあるが、一世を風靡した時代の寵児、「論破王」ひろゆき氏の論破力とはどんなものか、著者自身がどんな考えを持っているのか読んでみることにした。

    まず、表紙のカバーの説明と著者の説明が違うので笑う。「論破力をつけて、世界を思い通りにしませんか?」と書いているのに、いざ中身を読み始めると、著者は、「論破力」なんてなくてもよい、実世界で「論破」なんてしないほうがいいという。

    あと、著者は前提として、自分から「論破王」と名乗ったことはないとのこと。討論番組での振る舞いが視聴者に受けたから、そんな「肩書」がついたのであろう。

    そして、著者曰く「論破」というのは、所詮は「ゲーム」であり「エンタメ」である。その論破、の前提となる「ディベート」というのは、どちらの意見に賛同できるかジャッジする審判、司会者、観客がいてこそ成り立つ「エンタメ」であるともいっている。1対1のみの会話では成り立たない、らしい。

    ともあれ、「論破=説得力のある話し方」だと著者は再定義したうえで、本が展開される。要するに、相手に自分の意見が通したいのだろうからから、それならば、自分の話が聴衆や司会者の立場の人に説得力をもたせられればいいわけだ。

    そのうえで、著者はその「論破術」の一端を本のなかで披露する。今となっては他の人が暴いているそのテクニックも含まれているが、そもそも著者は本業であるプログラミングから得た、こうプログラミングを入力すれば、こう動くという論理的な感覚で、ディベートを「楽しんでいる」。プログラミングを生業としていない私が例えるとするならば、将棋のような1対1のボードゲームのような感覚、だと感じた。

    相手がこう討ってきたら、こう返す。過去の経験から、過去のパターンから、討論相手がどんな性格か、今後どう展開したいか、想定する。相手の主張が大きくなればなるほど、相手の思想が強くなればなるほど、相手がこちらを倒そうと思えば思うほど、つけ入る隙が生まれる。自分もよくわかっていない難解な言葉を使って、さも自分が物知りだという立場で相手を論破しようとするプライドが高い人間ほど、たやすく論破できる。だから、相手の主張のなかで、こういう風に言われれば「論破」することはできない、というパターンも披露する。

    一言でいえば、論破とはテクニックである、そう読み取れる。

    本自体もサクサク読める。この本を書いた頃の著者は「ニコニコ動画」の運営に携わっていたようで、YouTubeの動画についてはまだ関わっていないのか、あまり記載がないから、初版から8年たった今読むと、著者が一時期若者たちに大人気となる前の本、なのかもしれない。

    さて、この本を読み終わったときに、章やテーマに関して大きく異論を唱えるところはなかった記憶がある。各章ごとをみると的を得ている発言であるという記憶がある。だが、読み終わって全体を記憶でよみがえらせようとしたら、「全体としてはどんな内容だっけ?」とぼんやりとした記憶しか残らなかった。

    著者は他人に嫌われることなどなんとも思っていない、と書いている。そして、なぜ嫌われることを恐れないかといえば、他人に嫌われてもビジネスや生活に実害がないというのもいえるが、基本「人間に期待していないから」だという記述もあった記憶がある。

    そうなのだ。他人の発言やその背景にある思考をパズルのような、将棋の打ち筋のような、会話でのやりとりは、会話はむしろ将棋の駒。次はどういう手をうつのか?へえ、そんな手があったのか?という風なゲームを著者はやっているかのように説く。そこには、対戦相手の他者という「人間」に対しての敬意が感じられないように私には思えたのだ。

    私の推測だが、著者は「人間に期待していない」という表現には、何からしら人間全体に対する失望感が垣間見える。その理由は、本には子供の頃からの他人からの否定的な発言や暴力、議論にならない感情的な罵倒を著者が浴びてきたエピソードが時折披露されていて、「暴力を振るわれない、身体に危害が加わらないぐらいなら、罵詈雑言など他大したことないよ」という感じである。理不尽な体験を通して、他人を冷ややかに見ていることは全体の文章を通して、伝わってくる気がする。

    人間に言い負かされて悔しい、自分も言い負かしたい、議論に勝ちたい、そんな視聴者のニーズにこたえたかのように人気者になった著者。そのニーズにあわせるための本を出版したかった出版社。でも、この本での著者のノリはなにかが違う。

    著者は知っているのだろう。論破して買ったとしても残るのは、議論の敗者からの他人からの恨み。憎たらしいアイツをやっつけた、という賛辞はあっても、それは一過性。多分、彼の論破テクニックを実生活で真似ても、そこには勝利の喜びも気分爽快もなく、ただの恨みと人間という生き物への冷笑しか残らない、それなのに論破するの?そう著者から言われているような、達観した悲しい読了感だけが残る。

    そういえば、著者は最近SNSでは権力者側ではなく、弱者側で発言をしていると聞いたことがある。彼の話術ならば、どの立場でもどういう意見でもいえよう。そこであえて弱者側の論理を吹っ掛けるのは、彼にしかわからない人間的な理屈がある、のかもしれない。

    以下、本の内容とは全く関係のない私の個人的意見。

    この本のレビューで「著者が自分のことを「おいら」と呼ぶのが違和感を感じる」というのを読んだ。これは、まあ、おいらという一人称を日常生活でもない著作で使うのは、キャラ付けでもあろう。そんな本気になって読むなよ、という予防線の意味もあろう。

    ただ私は、ビートたけし氏も「おいら」という一人称を、スポーツ雑誌の連載で書いていた記憶がある。そして、そういえば、ビートたけし氏のテレビ番組は、意見の違う人を読んで「議論」させる番組が多い。著者とビートたけし氏は似たようなところがあるのでは?と思ったが、ビートたけし氏は今やお笑い芸能人のレジェンドとして、テレビ番組では確固たる地位をもつ。過去に暴力沙汰を起こしても、不倫疑惑があろうとも、彼を聖人君主としてではなく、一個人として持ち上げられている。

    著者とたけし氏の扱いの違いはなにか?生まれる年、お笑い芸能人としての経歴、監督としての経歴からして一概に比較できるものではないが、「議論」をエンタメとして扱う番組にでるのは同じ。そして、著者もたけし氏も議論をしているのを聞いて、笑っている。

    ただ、たけし氏の場合、「しょうがねえなあ」という苦笑いをする。そこには、人間の業というか、人間そんなに立派なもんでもねえさ、という笑い。だが、そこには、人間というどうしようもない生物に対する「情」も感じる。

    逆に著者がテレビで求められているのは、論破力はないが、なにか一生懸命自分の意見を世間に訴えている人間に対して、冷笑する役割を求められていると感じる。

    著者は「冷笑」。他人を見下す、面白がる「冷笑」。そこに、人間という存在を、どうしようもないものとしてとらえるも、人間に対して「情」を感じられるかどうか、を視聴者が感じ取っているのではないか、と私は思ったりもした。

     

    え?「この書評ってあなたの感想ですよね?」。はい、ただの私のデータに基づかない私の感想でした。

     

    ちなみに、最近私は著者の姿や発言を聞いたことがない。著者のXはブロックもミュートもしていないが、YouTubeは彼の切り抜き動画が一時期あふれかえったため、ブロックし、また、スポーツ新聞の「こたつ記事」も、彼のXの発言をただ切り抜いているだけなので、スポーツ新聞ごとブロックしたからであろう。

    そして、彼の発言を聞かないことで、私の実生活になにか影響があるか?といわれると、全くと言っていいほど悪影響があったと感じたことはない。彼自身が「エンタメ」とはよくいったもので、日常生活に「論破」など必須のことではないことがよくわかる。

    とはいえ、他人の発言に一喜一憂してしまうような人や時には、彼のように他者の言動などはだいたいはパターン化される言動なのだとと、知っておくことは、生きにくい時には役に立つ、かもしれない。

    8月13日追記 外出している際に、おもちゃ売り場で、小さい子供をつれた父親が店員に対して暴言を吐き、脅しても自分の主張が通らない結果となった腹いせに、店のものを蹴ったり、殴ったりしてから出ていったのを目撃した。

    その大人げない姿、店員を大声で脅す姿、そして自分のおもいどおりにならないと、他人の所有物である店内の展示物に当たり散らすその姿を見てひどく嫌悪し、怒りがわいてきた。そんな時である。この本の内容を思い出した。

    もしかして、著者のテクニックや思考は、こういう人間をどう扱うか、ということをいいたいのではないかと思い、この本のタイトルを代えた。その内容は、別の記事にて。

    いい大学と服装

    SNSで興味深い話をみた。

    とある男性の著名なお笑い芸能人が、小学生に、こう質問された。

    「いい大学をでたのに、パンツ一丁ででて、恥ずかしくないの?」

    これに対する、彼の回答が、タイムラインにでていたのだ。冒頭、彼はこういう。舞台に立つときなどは「恥ずかしい」と自分は思わないが、楽屋にパンツ一丁でいたら「恥ずかしい」。さて、「恥ずかしい」という感覚は一体何だろう?と話を続けていたのだ。

    相手は小学生ということもあるので、小学生に対する回答ではあったが、その返答に彼の人間性と知性と度量を感じられる表現であった。タイムラインなのですぐに見えなくなったので回答の詳細は不明である。その回答を無断転載するのはアウトなので、ここでは載せない。パンツ一丁で出演する事、有名私立大学をでたこととの関連性を踏まえた彼の回答に興味のあるかたは、彼のSNSで読んでみてもらいたい。

    さて、私は、彼個人の問題ではなく、この話題で彼同様、私もふと考えたのだ。

    「服装で、恥ずかしい、恥ずかしくない、とは一体何だろう?」

    大抵の人は服装や身に着けるものに関して、自分または他人の服装を見て、「恥ずかしい」という指摘をする人を見たことがあるだろうし、指摘されたことがある人もいるだろう。

    最初に、少し整理する。

    「ダサい」ではない。「ダサい」とは流行遅れ、という意味でもあるから、「恥ずかしい」とはちょっと違う。「ダサいから恥ずかしい」とは流行に左右されているのに過ぎないのだが、確かに数年前に流行った服装を着たり見ると、「なぜこの格好が格好いいと思ったのか」と思えるのはみな同じなので、ここでは外す。

    「だらしない」ではない。首元がよれている。しわくちゃ。シャツの裾がズボンからでていて「尻尾」がでている。カレーうどんなどを飛ばしたシミが白色の服についている。これは「恥ずかしい」という感覚を持つ人がいるだろうが、服装自体ではなく、服自体の品質の問題とか服の着方。服単体の話ではないのでずれるので、ここではこれも省略する。

    前提を受けて本題に戻ろう。服装でなぜ「恥ずかしい」という感想を持つのか?いや、なぜ、他人の服装に対して「恥ずかしい格好」と人は指摘するのか?

    しかし今でも服装について「恥ずかしい」という感覚を持つ人は大勢いるし、子供の頃から、そう指摘されてきて「恥ずかしいものなんだ…」というショックを受けて、その「恥ずかしい」という感覚に陥ったままの人もいるだろう。

    例えばこの記事を書いている今は8月1日である。気温は朝から30度を超えている。昼には35度を超えるだろう。こんな温度で、ワイシャツの上に、ジャケットをきて、ネクタイを締めるなんて、熱中症になりかねない生命に危険を及ぼす行為だ。

    だが、サラリーマンたるもの、仕事はスーツにネクタイをするのはクールビズが始まるまでは、一部のT企業や、実業家を除いて「常識」であった。

    つまり「恥ずかしい」とは、社会通念上、大人が着るべき服という「常識」から逸脱するから「恥ずかしい」という感覚なのである。

    常識といっても、その常識とは一体何か?これまでのスタンダートから外れる事を、他人とは違う格好をする人を「常識がない」と考えるからか?

    ただのファッション業界とマナー業界が意図的に作り上げた、そのトレンドとルールにに乗らない人を見下し、トレンドに、ルールに乗っている自分のほうが「格上」だと思っているだけではないか?

    ただ、もうひとつ「恥ずかしい」というのもある。体型だ。多様化の時代と言えども、お腹だけがポッコリ出ているのは服がにあわない。だから夏で薄着になると「恥ずかしい」という感覚になるのは、そのお腹がでているのがわかって見栄えがよくないからだ。

    そしてもういひとつ。きちんとした格好をしない人を、常識がないと考えている。つまり、きちんとした格好をする知力、能力、周りへの配慮、周りとの協調性がない、という意味で「みっともない」と考える人もいる。

    さて「恥ずかしい」のは何故か?ここからは上記のお笑い芸人の回答とは無関係である。彼は小学生相手だったので優しいが、これは私の独り言ブログである。

    他人の服装をみて「恥ずかしい」と発言してしまう人間は、今は、周りから同意され、「格上」扱いされることは減った。

    他人の悪口をいうことと同じで、「恥ずかしい服装」だと指摘すること自体は、他人の服装ではなく、自分の人間性が、「自分が格上だと認められたい」「格下の人間と一緒にいることで自分も格下に見られるのを避けたい」という「承認欲求」である。

    はっきり言おう。この小学生に対し、そのような知識を吹き込んでしまった大人のほうが「恥ずかしい」。

    とはいえ、SNSで、他人の服装や、発売商品にダメ出しをする動画が結構流れてきて、閲覧数が多いということは、「他人を否定したい」「他人を否定することで共感したい」「否定することで格下を作り、相対的に自分のほうが格上だと思いたい」という人間の欲求に従った行為だといえる。

    テレビをみると冒頭の方のように「いい大学をでたのに、パンツ一丁」のお笑い芸能人と、「学歴はないが、この真夏にスーツもネクタイもきて、さらに「ジレ」(袖なしのベスト)を着て、スタジオでテレビの司会をしている」お笑い芸能人もいる。

    テレビの場合、おそらく衣装であろう。見た目は重要だ。スーツにネクタイにジレを着ることで、しっかりした、きちんとした、教養のある人間に見えるようにしているわけだ。

    スーツにネクタイ、ジレは、結婚式等で着る方もいるが、ジレまでつけると「きちんとしている」感がより一層高まる。

    でもよくよく考えてほしい。今は熊本の大地震で被災しクーラーのないところで過ごしている被災者とか、外にでて現場のレポーターが、汗をかきながらポロシャツなどや半袖でレポートをしているのを、おそらくクーラーがガンガンきいている涼しいスタジオで、スーツにネクタイにジレを着て、司会進行をしているお笑い芸能人。

    「きちんとしている」感を重視して、暑さを視聴者に注意喚起のように導いている演出が、スーツにネクタイにジレを着ていることで、「場違い」な、「司会者を格上で教養があってきちんとしている」ことを演出することを重視しているワイドショー。

    今年のこの真夏。

    ンツ1丁で働くお笑い芸能人。スーツにネクタイにジレをきて、クーラーがガンガンに効いた涼しいスタジオで視聴者に注意喚起しているお笑い芸能人。さて、あなたはどっちが「恥ずかしい」と感じますかね?

    尚、服装については、自分が選んだのではなく、用意した者を着せられている人、買い社内で服装に関して指示されている人(上司や営業先ネクタイをしている以上、ネクタイをつけるよう言われている人)がいるので、一概に「服装」だけを見て判断することもまた「恥ずかしい」とは思っている。

    あと一例だが、某東京大学出身の某実業家は、夏はTシャツ、冬はパーカーを着ている。私は彼ではないので推測でしかないが、そんな「あらたまった服装」は必要ない、と思っているからで、他人から「恥ずかしい」といわれるから服装を着ているわけではないと思う。そして、たしか経済界でのフォーマルなイベントではジャケットをきていたのをみたことがある。別に、スーツを着ようと思えば着るけど、「恥ずかしいと思われるのがいやだから着る」わけではないのであろう。

    そして、最初の質問であるが、「いい大学」を出た人でも、実は服装についての考え方は2種類に分かれる。

    「いい大学」に入学したのは、自分に目的があって入っただけで、信用力があるのでその大学卒を名乗っているだけの、人生のひとつの時期だと割り切っている人。だから、いい大学を出ようがでまいが、他人から恥ずかしいと思われることなど、どうでもいいと思っている人。

    そしていつまでも「いい大学」をでたことが「自分が格上」であることの証明だと思って、常に「自分が格上で常識と教養がある人」だと「他人に思われたい」人。

    自分がどうしたいか、と、他人にどう思われたいか、どちらも人間には備わっているが、どちらに重点があるかで、対応が変わるものである。

    尚、「いい大学に入れなかった人」も2種類いる。

    いい大学に入っていない経歴を自己卑下して、いい大学を出た人の粗さがしをして、何か悪口をいえるところを探して、指摘して、いい大学をでても自分より格下だと周りに思わせたい人。

    服装なんて機能重視、本人の希望重視。異性にモテるための手段。学歴と服装なんて「そんなの関係ね~」とばかりに何とも思わない人がいる。

    最後に一言でまとめる。

    他人の服装「そんなの関係ね~」と思えるかどうかである。

    尚、芸能人というのは、目立ってなんぼである。アイドルがフリフリの衣装を着るのは、それが目立つし、売れるためには手っ取り早いからである。個性なんて後から発揮すればいいのである。

    でも、仕事場においては、他人を楽しませることが仕事であると割り切って衣装を着ている人、自分を評価されたいという振る舞いが最初にでてくる芸能人、2種類がいる。

    かつて、お笑いは「笑われるのではなく、自分が笑わせられる」芸人が凄いといわれていた。でも、最近私はこうも思う。「笑われる」ことをわかったうえで、「笑われる」芸能人のままでいる、というのも凄いのだと。