巧遅は拙速に如かず。急いては事を仕損じる。

仕事とメンタル不調に関する思考バイアスに自分で気づくための日記帳

他人に無音を求めるよりも、「ノイズキャンセリング」的な生き方がよい。

このブログ、一時期「ノイズハラスメント」というタイトルの記事の閲覧数が伸びていた。世の中、他人の出す音に対して嫌な思いを持っている人がいるのだろう。

まあ、こんな記事を書くぐらい、私は音に対して敏感だ。聴覚過敏、といってもよい。「ノイズハラスメント」の記事は、職場内の話だが、家の周りの音にも敏感である。

この時期、休みだと、耕運機の動作音が聞こえる。草刈り機の動作音が聞こえる。日曜日以外は、工事の音も聞こえる。音ばかりだ。平日昼間に家にいると、朝も昼間もテレビのワイドショーで、不安を駆り立て、怒りをかきたて、犯人捜しをしている。

私は、要するに、周りの音で自分の生活が阻害されない「静かな環境」を求めていた。他人の発する音で心が揺らされない「静音」と、変化のない環境を求めていたわけである。

そのために、周りに「静音」を求めた。みんな仲良く、とかいう意識は私は薄い。五月蠅いものは五月蠅いから注意して静かにさせる。

だが、この態度は、静かな環境を得るどころか、かえって自分の心身を苦しめることに気づいた。

自分の知らない音が聞こえると驚く。どこから鳴っているか調べる。不安になる。怒りに震える。住人との騒音トラブルで傷害事件が発生したことをテレビで報じていたが、私の場合、他人事ではない。被害者側ではなく、加害者側になりそうな気がしてならないのである。

それでも、他人に配慮して、という考え方は嫌いだった。大きな音を出すこと自体が、他人への配慮を欠いているマナー違反であるという怒りのほうが強かった。

でも、この生き方は実は自分の首を自分で締めていたのである。他人に配慮して音を出さないように他人に求めると、自分も音をだせなくなる。他人の音は悪いが自分の音はいいのだ、という都合のいい考えは持てなかった。他人に求める以上、自分も音を出すのは避けるべき、という規範意識にさらされてしまうのである。

だったら、その場から距離を置く、という考えを次に思い立った。しかし、この考えはすぐにとん挫した。失敗だった。

その理由は簡単で、他人が音を出すタイミングというのは、自分ではわからないからである。自分の都合のいい時が他人が何かをしたいタイミングではない。例えば、音のでている環境から離れるため、職場では席を外す、家にいた場合は外出する、などが考えられるが、これはかえってイライラするのである。

自分のしたいことができない、自分の行動が制限される、そしてなにより相手が音を出す時間の終わる時間がわからずにイライラするのである。

要するに、他人に自分の行動を左右されているわけであり、他人軸の生き方であり、精神的にイライラが募るだけである。そして、相手が音を出す時間を予測しだすと、未来への不安へと繋がり、今を生きていないことになってしまう。自分の今の時間を犠牲にしてしまう。その場から離れる用事をつくって対処すればいい、という考えは、その用事が相手の音を出す期間の終了時間と重なるとは限らないので「もう終わったかな?」とか推測してしまう。しんどい。

そして、次に思いついたのが、耳栓である。音自体を無音にしたらいい、と。だが、耳栓というのは完全に音を消せるものはほぼないといってもいい。音の大きさを小さくするものであり、その小さくなった音にかえって意識がいってしまう。相手の音に注意がいってしまうのである。

そんな時に思いついたのが、「ノイズキャンセリング」のイヤホンにより、自分の好きな音を聞くことであった。

ノイズキャンセリングは、仕組上、外のノイズに別のノイズをかけあわせて聞こえなくさせているだけであって、無音にはならない。そして、音を全く出さなければ、耳栓と同じで音は聞こえてしまう。だから、自分からなんらかの音楽を聴かないと効果を最大限発揮できないわけだ。

だが、この自分の好きな音楽を聴く、というのは、結構ありなのである。他人の音が不快、というのは、実は4つの理由がある。

  1. 音量
  2. 自分の好みではない音
  3. 自分が選んでない音
  4. 自分の選択で、音を消したりつけたりすることができない

この4つが理由で、他人の音が不快なのである。だから、ノイズキャンセリングイヤホンで自分で音楽を選択すれば、他人の音に対する「不快感」というのはかなりシャットアウトできたりするわけである。

ノイズキャンセリングイヤホンを使って、その間に自分の好きなことをすればいい。他人に無音を求めていると、自分も無音にしないといけない、という規範意識にくるしめられるが、自分でも音を出せるので、なんら精神的に不安になりにくい。

そして、人間の脳というのは、普段とは違う音に対して警戒する。外敵への対処として、脳が正常に機能している証拠ではあるが、音量が大きすぎて、自分の聞きたいものが聞こえないとか、真夜中とか言う場合を除いて、他人の音が不快なのは、その他人が嫌いか、他人のしていることが不快なのかのどちらかである。

他人、または他人の言動が不快な時、他人を消すこと、他人の言動を止めることは現実難しい。本当に、ご近所トラブルになる。

だったら、ノイズキャンセリングイヤホンで別の行動をすればいい。

さて、この、ノイズキャンセリングイヤホン。音に対する具体例として挙げたが、別の他人の言動が気になる、不快な場合や、警戒心が強くなった時の対処も、この「ノイズキャンセリングイヤホン」的な行動をして、やり過ごすほうが精神的に楽であることに気づいた。ノイズキャンセリングイヤホンもつけっぱなしだとしんどいから、その時はずしたら、意外と外部の音が小さく感じたり、不快感が小さくなっていたりする。急な音に対する警戒感と不快感がそうさせることに気づくことができる。

つまりは、他人に対し、その不快な言動を辞めさせたり、イライラしたり、なかったことにしたりするよりも、最新の技術を使って、自分の選択した行動をして、自分のやることに集中することが一番の対処であると思った次第である。

なにより、精神的に楽である。精神的な負担というのは、外部からの押し付けにたいする我慢と、自己の言動の制限と、現在の怒り、過去の恐怖体験、未来への不安からくる、というのがよくわかる。

といっても物には限度がある。あまりにも非常識な相手や、継続的に続くような不快な人間の場合は、近くにいてもなんら利益はない。我慢していたら精神的にまいってしまい、自力でそれを何とかしようとしたら、それこそトンカチをもって脅すような極端な行動になり、事件になり、自分のほうが悪、つまり加害者になってしまう。そんなひどい相手の場合は、これはもう「災害」だと思って、被災しないように、そこから避難するという選択肢を持っておくことは「敗者」ではないと思うことも重要だろう。

「失敗を恐れるな」といわれても、実際失敗すると、責任は問われるもの。

失敗について、こういう人がいる。

「失敗を恐れずに、チャレンジしろ」と。

そういう人間に限って、こういう。

「結果責任をとれ。」と。

失敗を恐れずに行動することは奨励するのだ。ただし、以下の例外を除いて。

・拙速な行動による損失

・遅延した行動による機会損失

・注意が不足したことによる失敗

・注意が過剰で、期限に間に合わない失敗

・調査が不足したことによる失敗

・調査ばかりして、行動に移るのが遅かった機会損失

・結果を受けて、言い訳をすること

・結果を受けて、十分に説明しないこと

・部下や子供がミスをした場合の指導者としての責任

・部下や子供が尻込みして行動を恐れるようになった場合の指導者としての責任

・経年劣化による物品の故障により生じた損失

・経年劣化を恐れて、過剰に修繕に費用をかけたことによる経費増加

・安全軽視による損害

・安全を重視して中止した場合、遅延した場合の損害

等々。

上記は皮肉で書いた。

上司による

「自分で考えて行動しろ」と「事前に報告しろ」と同じ。

相反することでも、結果に満足しなかったら、こう叱責される。失敗を指摘される。失敗を恐れるなと言ったが、上記のような、自己責任による失敗は防げるから、失敗に入らないと、失敗を叱責する。

そう、どういおうとも、失敗は叱責されるものなのだ。失敗を恐れるな、とはいったが、失敗を叱責しないとは一言もいっていないし、それをもってクビにしないとも言っていない。

上司は責任を取らない。責任を取るときは、部下に1%も落ち度がない時。だが、1%も落ち度のないことなど絶対にない。車でいえば、駐車場で停車していた時にぶつかられた時で、動いていたら何らかの過失は問われる。つまり動いていたら過失を問われるが、人間の場合、迅速かつ的確に動かなかった場合も「未必の故意」とかいって責任を問われる。

そう、生きている以上、何らかの失敗はするし、その失敗は世の中の人間全員から、誰も責められない保証はない。失敗した以上、責任は問われる。

だから、失敗しては駄目だ、とい言いたいわけではない。失敗したら責任を問われるのが当たり前だし、動いても動かなくても失敗する時はあるので、自分のその時やれる範囲のことをやればいいというだけの話だ。

責任を問われた時に責任をとると、「責任感が強すぎる。生きていくのが苦しくなるよ」といわれる。だからといって責任を問わないと「無責任だ」と言われる。

なにをしようとも、他人は責める。そういう環境にいるから、自分も他人を責めるようになる。他人も同様に責められないのは不公平、不平等だからだ。

失敗なんて、責任なんて、くそくらえ、とまではいかないが、故意でない限りは、重過失でなければ、(重過失というと、些細なことも重過失という人間もいるが、ここでは例えば、車の運転の飲酒運転とか、スピードの出しすぎとか、ひき逃げとかまで無視しているわけではない、という意味)「すいませんでした」といって明日には忘れておくのが、メンタル的には楽なのだ。

国の総理大臣が任命責任を問われて、「任命責任は私にある。」という場合のようなもの。責任はあっても、辞任したり賠償したりすることはない。それと同じ。他人の失敗まで責任を感じて、責任をとっていたら生きていけない。

応酬のクラブサッカーの監督が負けた責任を取って解雇されても、ほんの数か月で、違うチームの監督をするようなもの。数年後、同じチームで監督をするようなもの。失敗した責任を問われてクビにされても、次にいけばいい、という意識でいればいいのだ。法を犯して、逮捕、そして、起訴され、有罪になる行為さえしなければ、ね。

結局は、自分が見聞きする他人の言動に怯えているだけ

ふと気が付いた。これまで、怒りや不安やメンタル疾患についてあれやこれや書いてきたが、結局のところは…

 

他人が怖いだけである。なぜなら、他人は…

自分の言動を、過去を、未来を、否定するかもしれない。

自分を馬鹿にするかもしれない。

怒るかもしれない。

「間違っている」というかもしれない。

笑われるかもしれない。

失敗を指摘されるかもしれない。

財産を奪うかもしれない。

仕事を奪うかもしれない。

財産を含めて傷つけてしまうことで、自分はその責任を負わないといけないかもしれない。

 

そして、

自分が否定する可能性のあることに怯えていて、そうなる場面や出来事を避けようとして、不安になり、恐怖を覚え、または、そうなる場面を避けるがために先んじて他人に怒ることで自分を守りたいだけかもしれない。

先んじて、自ら失敗を報告しているようで、先んじて他人から否定されるのを避けたいがためかもしれない。

「気にしない」のではない。自分の人生を否定するのは、いつも他人の言動、またはその他人を見た自分なのだ。他人がいる、それだけで、他人と比較し、自分の過去と現在の言動を見つめ返すことができる。

その結果、自分の人生を自分で否定する、その自体が怖いだけなのかもしれない。

ストレスを減らす思考と言動⑥ 他人の目線とは、過去の嫌な記憶と、自分の悪い推測でしかない。

ストレスを感じる時というのは人それぞれであるが、ストレスを感じるときのひとつに「他人の目線と、近くに見えて聞こえる他人の言動」というのがある。

要するに「他人の視線が気になる」

これに対して、「他人を気にしない」という自己啓発の言葉がある。

たしかにその通りなのだが、実際問題、脳の構造上、全く他人を気にしないようになることはできない、らしい。他人というかむしろ、自分の外部の情報を無視できない、といったほうが正しくて、つまりは、自分に身を守るために、外部の情報を把握して警戒するように人間の脳はできているのである。

つまり、意識して「他人を気にしない」ようにすることなどできない。

だが、完全に「他人を気にしない」のは無理でも、「他人を気にする時間や回数を減らす」ことは可能だと思う。

というのも、他人の言動を全く気にしていないくて、他人から直接指摘を受けて初めて気が付く場合も結構あったりするからである。これは、「他人を気にしない」ようにしたからそうなったわけではなく、それは警戒をしていないか、他事に集中しているいるからでもある。

ただ、これは人それぞれで、生まれ持って気にする回数の大小はあるし、同じ人間であっても、その時と環境によっては、気にしない場合もあるので、「気にしないときもあるのだから、気にしないようにしよう」と意気込んでも、気になるときは気になるのだから、意識して気にしないようにする、というのは基本的は難しい。

だったら、他人の目を気にする機会と時間を「減らす」ことを考えたほうがいい。

前置きが長くなった。では、どうやって、他人の目を気にする時間を減らすか?

まずは、自分がどんな時に他人の目を気にしたのかを、後で自分で分析してみることだ。

人によって異なるのだろうが、例えば、私の場合、他人の目線というのは、「今、自分が社会常識やマナー、モラルから外れたことをしている」という意識がある行動をしているときに他人の目線が近くにいる時が多い。

だが、ここでいう社会常識やマナー、モラルというのは、気にしている他人の社会常識やマナー、モラルではなく、自分のなかにある社会常識やマナー、モラルを基準にしている。そもそも自分と他人とは、その基準が異なる。

そして、他人の目が気になるときというのは、自分の言動を見た他人に、注意されるかも?怒られかも?訴えられて?損害賠償または刑事告発されるかも、と警戒している。

ただ、例えば損害賠償しないといけない場合というのは、法に違反するか、他人の身体や財産に危害を生じさせている時だろう。実際のところ、自分が他人の目を気にしている時で財産に危害を与えているというのは、財産権の侵害や、他人に危害を与える時などが想定されうる。

そこまで考えると、我に返る。果たして、他人の目を気にしている今の自分の行為は、他人から損害賠償をされるような行為だろうか?

たぶん、そこまでのケースは限られる。

勿論、損害賠償をしないといけないかも?というような行動もある。例えば、他人の車を傷つけたり、他人の敷地に入ってしまったり、買っているペットが他人や他人の財産を傷つけたり。ただ、そういったケースというのはかなり悪い場合であり、えてしてそう気にしている時は損害を与えたりしない、杞憂になる。損害を与えるときというのは、大抵無意識の時か、想定外のことがあったりするときだ。他人の目を気にしている時点で、もう無意識でも想定外でもない。

そう、他人の目線を気にする、というのは、法に違反したり、他人の財産に損害を与えるよりも、自分が社会常識やマナー、モラルに違反する行為をしているのではないか?と思った場合が多いだ。

そして、その社会常識というのは、自分を縛り付けている社会常識の場合が多い。または、他人がそれを破ったら咎める意識がある社会常識で、過去に咎めた手前、自分も社会常識を守らないと、と自分で自分を縛っている場合だろう。

たとえば、「この服装で歩いていたら、社会通念上いい大人がする格好ではないと思われていないか?」とか「ここで修繕工事をしたら、五月蠅いのではないか」とか「平日の昼間に成人男性が1人で買い物をしていたら、怪しいと思われるのではないか」とか「休日に会社の人に会ったら、自分の格好とか買っている商品とかを見られて、見下されるのではないか」とか。

文字にかいてみたら、意外とたいしたことはないとおもわないだろうか?

おそらく「恥ずかしい」という意識のほうが強い。自分の服装とか、買い物している姿を見られるのが「恥」だと思っているから、他人の目を気にしてるだけで、問題の根本は自分の「恥」の意識だ。

「恥」をかかずに生きていくことなど不可能だし、その「恥」は自分のイメージを高くしようとしている、見栄っ張りに過ぎない。自分で自分の首を絞めるだけだ。

成人男性がパーカーを着て歩いて悪口をいわれようが、半ズボンを履いて悪口をいわれようが、たいていの人間は直接言ってこない。陰口か、SNSのインプレ稼ぎだ。そんなことをいっていたら、たとえ結婚して子供がいても、着ている服、乗っている車、買っている服、子どもの格好、配偶者の格好など気にしてばかりで、買い物にいけず、ネット通販ばかりになる。

五月蠅い、という表現は、私が音に敏感で他人の音に敏感だから、自分が他人に迷惑をかけてはいけない、という「縛り」のようなものだ。

ちょうどいい例に、今、明治時代の看護師という職業が初めてできたころを舞台にした朝ドラをしている。当初、主人公の母親は、看護師になろうとする主人公に対して「看護婦になるなんて、恥を知りなさい」と主人公に怒っていたが、当時、看護婦なるものの職業はなく、身分の低いものがする仕事だという意識から「恥」となっていたことを表す演出だ。

令和の時代、「看護師になりたい」と子供がいったら、「恥を知りなさい」という親がどれだけいるだろうか?いても、せいぜい、代々医師の家系の家族ぐらいで、大抵は「大変だが、他人に貢献できる立派な職業」という意識だろう。「大変だからやめとけ」といわれるかもしれないが、「恥」といわれることはない職業だ。

それぐらい「恥」という意識なんて、時代によって変わってきている。

他人の目線を気にする時、そこに「恥」の意識が自分のなかにないだろうか?と考えてみたらいい。「自分が異様に気にするモラル」に自分が縛られていないか?と考えてみたらいい。そうすると、他人の目線というのは、自分の心の中の弱い、見られたくないと思っている姿があることに気づくし、その見られたくない姿というのは、「恥」か「モラル」か「失敗したところ」のどれかにあたる場合がある。

ただ、実際には、注意された経験があるから、その時の悔しさや悲しさ、後悔という過去の経験があるから他人を気にしているのだと思う。

だが、過去の注意というのは、最初に予期していたことだろうか?多分、よきしていないか、もしくは、悪いことをしている自覚があるが、兄弟や友達や恋人などに誘われて止められなかったことに対する自責の念が残っているかだろう。

その過去を教訓に失敗してはいけないと思っているが、他人に注意されたことが、2度としてはいけないこととなって、警戒態勢になっていないだろうか?

悪い予測かどうか確認してみてほしい。実例を数多く積んで、警戒するほどはおきないことが脳に記憶されて、他人の目線を気にする頻度が次第に引っ込んでいく場合が多いと思うが、いかがだろうか?

尚、最近、「トクリュウ」なるものが強盗殺人をした痛ましい事件をテレビが連日報道している。当然だが、不審者への警戒と、他人の目というのは違うつもりで書いているので、ご理解のほどを。

ストレスを減らす思考と行動⑤ 「今に集中する」を朝の洗濯機に例えて

ストレスを軽減するには、「今、実施していることに、集中すること」だ。

今実施していること、それに集中すれば、過去の怒りや恐怖や不満、未来への不安や去焦り、現在同時進行していることにとらわれない。湧き出てくる思考にまどわされない。

その内容は、色々な自己啓発書でさんざん言われていることであり、誰もがわかっている。だけれども、実施できない。

だったら、ひとつ、朝起きて、洗濯機を回す際の行動で例えてみよう。

あなたは、今、朝の洗濯機を回す作業をしている。出勤する前の時間までにこの作業を終わらせたい。水の節約のために昨日のお風呂の湯船に残っている水を使うことにしたい。洗濯を十分にするために水の量を多めにしたい。その作業をする。

今の洗濯機は最後に開始ボタンを押せば勝手に回る。やる作業は、あらかじめきまっていて、淡々とこなしていくだけだ。

毎日やっていて、一連の作業は体に染みついているからそんなミスは自分は絶対にしない、という人は、毎日その作業はしない人、当番制の人ような場合だと思ってほしい。

例えば、給水をお風呂の水ではなく、通常の給水をしてしまった。お風呂の給水ホースが湯船に入っていなかった。洗剤を入れ忘れた。水量が足りなかった。スタートボタンを押し忘れた。そんな初歩的なミスをすることなのめったにないのだが、なぜかそんな初歩的なミスをしてしまったとする。

その理由は何か?一言でいえば「今やっている一連の単純作業に集中してないから」

体調不良で頭が全く回らない場合などを除けば、たいていは頭が別事を考えているからではないだろうか?

・昨日のことを思い出していないか

・洗濯機を回した後のこと、つまり未来のことを考えていないか

・今日のこの後の作業の計画を考えていないか

・出勤時間に間に合わないと焦っていないか

・次の作業のことに思考がうつっていないか

・なぜ、自分がこの作業をしなければいけない!と理不尽だと怒っていないか

・ふと、やらないといけないことを思い出していないか

・ほかのやるべきことを忘れないようにと、別事に思考が移動していないか

・近くにいる人の姿が目に入っていないか

・今日の体調はよくないなあ、などと別のことに思考にいっていないか

・テレビのニュースが気になっていないか

 etc

とまあ、こんな例が挙げられる。要するに、思考が今の選択の作業に集中していないのだ。他のことに思考がうつっている。焦っている。怒っている。ボーとしている。不安になっている。他人の視線が気になっている。

結果、今、目の前の作業に集中していない。

今目の前のことに集中する、ということは、要するに①過去、②未来、③現在の他の同時進行している別の作業、に思考が移っているからだだから、そのよそに行ってしまった思考をそ目の前の作業に呼び戻す必要があるのだ。

ストレスを減らす思考と行動④ SNSは「話のネタ」を提供するもの、として扱う。

SNSは見なくてもいい、SNSは依存するから、SNSは正義中毒になるから、SNSには閲覧数化数稼ぎのための明らかな「釣り」があるから、と度々書いてきた。

でも、ふと見てしまう。そこに、自分と趣味を共有する人達がいるから。

でも、ふと見てしまう。そこに、刺激があるから。

ベストセラー作家の本にて、インターネットとSNSの隆盛の理由をこう分析した人がいる。

「SNSという手段によって、社会的権威のある者たちを、格下と扱われている名もなき若い人達がなぎ倒す行為、社会的格差を覆す行為が快感なのだろう」

たしかにその点はいまでも健在だろう。権威者、権力者、知識人、著名人、経営者、経営者一族、多額の相続をした金持ちなどを名の無き匿名の人がなぎ倒す。新進気鋭の若き論客が論破する、その姿勢が楽しかったのだし、インターネットという武器でこれまでの変えることのできない地位や格差がひっくり返す、その発言が楽しかったのだろう。スカッとジャパンである。

そして、専門知識があるが、知名度や肩書がなくテレビや雑誌や本で自身の知識を披露する機会に恵まれない専門家たちに、その知識を披露する場が提供された。その専門分野は、書籍や本にしたら採算があわないであろうニッチな分野だからこそ、一気に人気を博すこともあった。

また、「面白い」と言われている笑いを生業としたい人達もテレビには出るチャンスにはなかなか恵まれない。昔、島田紳助氏が「Mー1グランプリ」を開いたのは、なかなかチャンスが巡ってこない若手お笑い芸人に、その芸を披露するチャンスを与えんがためであったし、松本仁志氏のお笑い番組もそう。だが、それだけでは限界がある。市井に埋もれた人を楽しませる才能ある人達が、その才能を披露する場として、YouTubeは隆盛した。

それから、何年が過ぎたであろう。

YouTubeにて、知名度を上げた人たちは、逆に権力者、大金持ちとなり、新たな権威者となった。匿名の相手に挑まれる対象となった。そして、その権威を糧に、他の人間を見下し、嘲笑する存在となった。

社会的地位を覆す装置たるSNSは、社会的地位の高い人をターゲットにしていたのが、より自分より社会的地位の低い人を見つけて、自分の地位の高さを誇示し装置となった。

SNSは、自分の地位を高めるため、自分を盛り、他人を見下す、格差を作り上げる装置となった。承認欲求のための場所である。

例えば、以下の流行を取り入れたよりオシャレな服やアイテムを紹介したい若きYouTuberは、いつしか、オシャレなアイテムを紹介するよりも、自分よりもダサい人たちを見つけて、嘲笑することで、ファッションセンスがある自分を見せる存在となった。

格差をなくすことを期待されたSNSは、誰もが格差を生み出せる装置となった。

SNSだけが悪いのではない。売れたお笑い芸人たちは、YouTuberを見下す。自分たちを高めるために、自分の面白さをアピールするよりも、他者を否定することで自分が面白いと広める。誰かが「嫌い」ではなく、誰かに「いじめられた」と表現することで耳目を集める。

YouTuberは、テレビに出続けているお笑い芸人を面白くないといって、自分の面白さを広めたがる。

そして、そのやりとりを、インターネットのニュース記事が取り上げる。誰かが誰かを面白くないといった、それがニュースらしい。

そのどちらが面白いかどうかなんて、はっきりいって、なんの価値も生産性も生まない。だが、職場の休憩所での話は他人の悪口のほうが盛り上がる。他者を否定することで自分たちの結束を確かめ合う。別にインターネットがなくても悪口は広がり続ける。

それが人間の性。他者より自分のほうが上だという確認はセロトニンを作り出す、らしい。そう、あのメンタル疾患の主原因といわれるセロトニンだ。つまりは、メンタル疾患にならないためには、つねに他者を否定することに意味がある。

…というわけではない。他者との比較で、他者よりも自分のほうが下だと思うとセロトニンの放出量は減少するらしい。世の中、自分より上の人間はいくらでもいる。実際会う人だと合う人間は限られるが、インターネットを介して、SNSを介せば、いくらでも繋がる。そして、自分より上の人はすぐに見つかる。自身を誇示するよりも、自身が格下だと惨めになる機会のほうが、圧倒的に多い。

SNSは見ないほうがいいのだ。長時間見ない、のではない。極力見ない。他のことをするほうがいい。勿論、「まとめサイト」もヤフーニュースや、LINEニュースなども同じだ。比較する必要のない人と比較することをやめるのだ。

そして、辞めるためには、本当にただ辞めようとすると落ち着かない。脳が刺激を求めているからだろう。他者が否定されていることで安心感を得たい、悪いことをする人間を成敗することで満足したい、と脳が刺激を求めている。

そこで、こう思いついた。

「SNSの内容は、話のネタを提供しているのに過ぎないんじゃね?」と。

その内容が正しいかどうかではない、有意義かどうかではない、ただの話のネタだと。昔だと、通勤、通学電車の中刷り広告の週刊誌のタイトルをみるようなものだと。帰宅時に100円程度の夕刊誌、週刊誌を読むようなものだと。それに真実があるとは思っていない。暇つぶしである。後から、仲間内での休憩時の話のネタにするためのものだと思うのだ。

するとどうだろう?SNSを見る時間が減っていく。やはり、SNSは人が叩かれているのをみたい、正義の名のもとに誰かを叩きたい、誰かが落ちていくのを見てみたい、からだ。その欲求を抑えようとするのではなく、その欲求よりも正義感を大事にして、「けしからん」と成敗しようと怒るのではなく、その欲求のままに「たわいもない、仲間内のメンバーを傷つけない話のネタ」として読むのだ。すると、肩の力が抜けていく。

有意義な情報を探している人は対象相手をフォローして、そのフォローした相手の投稿だけを見るだけで十分なんだろう。

さて、こう思っていたら、4月からSNSを見る時間がかなり減った。いいことだと思っていたら、ひとつデメリットがあった。

それは、このブログに書くネタが発見できなくなったことだ。

つまり、SNSは「話のネタ」である、ということが人の中で消化できたわけだ。

SNSのネタが人生の何の役にたつ?と聞かれたら、なんの役にも立たない。

例をあげよう。マイナンバーカードの取得の義務化の報道がされた後に今日、タイムラインで「今どき、マイナンバーカードを持っていない人ってなんなの?」と嘲笑するかのような、明らかな「釣り」がタイムラインでバズっていた。

さあ、これに対して、マイナンバーで国民を管理するなんてけしからん、と反論したい人は反論コメントしたくなるだろう。マイナンバーカード自体を持たなくても特に生活に困った経験のない人は、それを説明したくなるだろう。マイナンバーについて分析したい人はその分析結果を披露したくなるだろう。正義感が強い人は、マイナンバー自体の是非はともかく、このような赤の他人の行為を見下す発言を投稿することを咎めたくなるだろう。この投稿に反対する人は、高市政権に批判的政権だと、話が飛躍する人は、どちらの意見でも自分の意見が正しいと論破したいだろう。

さて、そのコメントをして、そのコメントを見て、あなたの生活に何か影響はあるだろうか?何もない。いや、ある。

あなたの大切な一日の時間を浪費させて、そしてあなたに無駄な感情を生み出して、時には怒りを生み出して、ストレスを増やしている。

ただ、これが「話のネタ」だとわりきっている人は、休憩時間の話のネタに利用する。

こう比較すると、話のネタだと利用する人のほうが、精神的に楽だ。それに、わざわざ口論に参加すると、誹謗中傷した人として訴えられるリスクがある。ただ読むだけだと誹謗中傷には当たらないし、身内の話のネタにして訴えられているならば、週刊誌や新聞、テレビの話題をした人はすべて訴えられてしまうからだ。

ストレスを減らす行動と思考③ 心配性の人の思考に引きずられない

先日、平日の朝8時に「モーニングショー」という番組の最初のほうを見た。

この「モーニングショー」という番組は、過剰に不安を煽り、権力者や犯罪者、マナー違反の他人に対する怒りを前面にだし、勝手な憶測を振りまき、出演者同士の対立的な構図を放送していて、「人類は自らの過ちで絶滅へと向かっている」かといいたいような内容中心で、私は見るのも嫌なのだが、朝の出勤時間にはテレビで時間を見たいので、テレビ自体はつけておきたい。だが、この番組だけは変えていたのだが、この番組を家族がテレビをつけたがるため、朝から大変不快なのだが、我慢している。現在の総理大臣を支持ていない家族にとっては、政権に批判的なこの番組のほうが芸能人のプライベートや宣伝をみるよりかはましらしい。目や耳に入ってくる。

そうしたら、今週の月曜日は、月曜日から金曜日まで週5日でている男性のコメンテーターが欠席で、月曜日に出演している2人がコメントをしていた。

するとどうだろう?テーマとしては、ナフサがなくなりそうだという件を扱っていたのだが、2人とも、オイルショック時のトイレットペーパー騒動を念頭に、怒っている事実を、買占めのパニックを起こさないように、冷静に話をしていた。番組構成は不快だが、コメンテーターとしては良識のある方々のようだ。

そこで確認できた。週5日出ているコメンテーターが先頭にたって不安を掻き立てているのだと。

そして、金曜日の男性のコメンテーターの方が、週5日でているコメンテーターのことを以下の通り指摘しているのを思い出した。

「玉〇さんは、心配症だから。未来のこと、起こっていないことを悪い方向にばかり想像して、悪い方向のデータを集めて、不安がってコメントしている。」

まあ、〇川さんが心配性かどうかは私にはわからないが、彼のコメントを聞く限りにおいては、確かにその心配症が前提にあってのコメントのように思われる。

勿論、そういう演出をしているのかもしれない。未来を危惧したコメントをする役割を担っているのかもしれない。本心か、演出かはわからない。

だが、この番組が朝のワイドショーのなかで1番の視聴率を出し、他の局のワイドショーを軒並み終了させたのは、玉〇氏の功績もあろう。勿論、羽〇氏の司会進行能力もあるだろうし、他のコメンテーターの人選も弁護士やジャーナリストなど専門家が多く、他の芸能人の素人コメントのワイドショーとは一線を画しているのもある。

要するに、視聴者は、テレビに、朝のワイドショーに、刺激を求めているのだ。そして、テレビ番組はそのニーズにこたえているのだ。番組の内容も不安を煽り、事件や事故をフォーカスし、さながら刑事ドラマのように、憶測で推理し、犯人を先に暗に特定し、それをもとにコメントしている。はじめから犯人がわかっている刑事コロンボや古畑任三郎かのごとく、犯人は特定し、その証拠集めをしているかのような番組だ。

私は見るに堪えない番組だと思っているが、朝の暇な時間に刺激を求めている層には、そういう事件や事故や物がなくなるなどの不安や恐怖を煽るほうが視聴率がとれるのだろう。

これは、テレビではなく、SNSでも変わらない。テレビやSNSはお互いを批判するが、発言の一部を切り取り、このテレビの不安と心配を煽ることで視聴者を獲得するテクニックを真似ているところがある。にたもの同士だ。

そしてわかったわけだ。

人間には、なんでか知らないが異様に心配になる人がいる。はたから見れば、自ら望んで未来のことを心配したいがために、情報を収集する人。心配性ってやつだ。

そして、そういう人がそばにいると、なぜか知らないが、周りも心配になってくる。

その心配は刺激ではなく、ストレスになっていることも、他者を巻き込んで不快の種をまき散らしていることを忘れているかのように。

昔、医師がSNSで、帰省をしたら、両親がコロナ禍で外に出られないからテレビばかり見ていて、テレビでコロナの心配と不安を煽るのを見続けた結果、心配ばかりして、メンタル不調になっているという投稿をしていた。

心配、って何を心配しているのあろう?その心配は、自分でどうにかなる心配?

特に、最近は、ナフサがない、と不安を煽っているが、あれはただの一般人がどうにかできる問題ではない。究極的にはアメリカとイスラエルとイランの首脳でなければ解決できない問題だ。日本だけのナフサがあればいいというわけではない。問題ではあるが、一人の日本人で解決できることは限られている。

一般人が解決できない問題で、一般人ができることは何か?

そう、買占め、である。

テレビは、結局のところ、買占めを煽っているのである。業種によっては、ナフサを規制する際に業界によって優先順位をつけられたときに下がらないようにアピールする必要もあるのだろう。値上がりの理由を、仕入れが滞る理由を説明したいのだろう。ナフサがなくなったとき用に、企業は何とか対応策を考えている。日本政府も、外国の政府も当然考えているだろう。ただ、先行きは不明なので、できうる対策をとっているだけだ。

再び問おう。一般人ができることは何か?

そう、ナフサがないと煽るテレビ番組を見るのを辞めることである。

つまり、ストレスというのは、不安というのは、こういう不安を煽る人間達に影響されている。

不安を煽る人間とは距離を置く、事実だけを冷静に伝える番組や新聞を見る、それがストレス軽減の第一歩である。