Xのタイムライン上で、仕事の話の中でこういうテーマが良く流れてくる。
「圧倒的な成果を出す人の特徴は…」と説明する文章のことである。
最初に結論から言うと、「どうでもいい。」
そもそも「成果」の定義すら共有されているとは思えないし、Xの短文の意見に左右されて仕事上の立ち振る舞いを変えるのは、ちょっと悪口をいわれたぐらいで他人の意見に振り回されているようなもので、そういう人間に「成果」は期待できない。
しかし、である。「どうでもいい」と話を終わらせていたら、なにも記事のテーマにできないぞ?と我に返り、折角なので分析してみることにした。
まず定義を国語辞典から引いてみよう。
要するに、良い結果がでる人、ということである。良い結果とは何ぞや?良いとはだれにとって?
そもそも良い結果と言うのは立場上、職種上などおかれた条件でかなり異なる。
まず、労働者と経営者(個人事業主)では全く異なる。
経営者、個人事業主としては、成果=売上、利益がでないことには話にならない。お金が増えること=成果だ。この事業主として事業を存続するための必須条件を理解していないと話が食い違う。
売上、利益がでることが成果であり、利益が出ないことには食っていけないし、事業も継続できない。その事業がどれだけ社会的に意義があろうとも、公益性があろうとも、社会を維持するために必要な事業であろうとも、利益がでないことには継続できない。
過去に保育士や介護士の方などが賃金の低さを嘆いていて、それに経営者の方が文句を言ったことがX上であったが、経営者にとってみれば利益がでない以上賃金は払えないのだから、それならば利益が上げられる職種に転職すべきというのは上記の必須条件から見て当然の意見ではある。保育士や介護士が現在の日本社会の維持に不可欠なのは誰もがわかっているが、短文のXではそれは共有できないし、獲得する金銭が多い方がいいに決まっているあ。ただ投稿した本人は愚痴と願望をX上で述べたのであって、その必須条件を度外視して話しているのだから、意見が食い違って当然である。
では労働者としてはどうであろうか?
これも職種で異なるし、立場で異なるし、企業の規模でも異なるし、年功序列制が重視される会社か、成果主義重視の会社でも異なる。
いち営業職としては、個人としての売上を上げてナンボ。以上。
一方、管理職は個人だけでなく、自分が管理する部署全体の数字的な目標を達成するのはもちろんのこと、組織の維持や改善させるのも成果に含まれる。売り上げをあげましたが、人心が離れてエースクラスが他の会社に引き抜かれました、退職者が続発して組織として人手不足で業務が回りませんでした、では成果を上げていない。
管理部門の場合は、売上ノルマがない代わりに組織を円滑に回す必要がある。組織維持のための知識は勿論、組織間との対話をする能力が求めらえる。また会社の不満のはけ口として扱われたりするし、クレーマーや自社の不祥事の対応をする場合もあるのでメンタル面でのタフさも要求される。どこかのZ世代が「総務部」に入って楽して、定時帰りに皇居マラソンをすることを目標としているという話を聞いたことがあるが、「総務」を舐めすぎだし、会社によっては「総務」は最重要部署でもあったりする。(勿論、いらない人間をとりあえず配置する部署もある)総務部に入れば、何もしないでいいという人間は、まあその会社ではいらない人間なので、終身雇用かコネクションの人間でない限りはお先は真っ暗だろう。
また会社の規模にもよる。大企業はぶっちゃけ、成果の基準が定期異動でトップが変わるたびにコロコロ変わったりするし、オーナー企業とかだと、オーナーにいかに気に入られるかが「成果」のところもある。中小企業は何十年も同じポスト、同じメンツなので、いかにその組織の人間関係を良好に保てるかどうかが「成果」になる。
長々と話したが、要するに労働者にとっての「成果」というのは、自分の組織、立場によるところが大きいので、X程度の文章で判断できるものではないだろう。
では、この成果を出世するための道具として扱うのならばどうだろうか?
これも会社による。上が詰まっている会社ではどんだけ成果をあげても出世できない。代わりに上が開けば出世する。つまり成果と出世はそれほど関係がない。年功序列の会社は大過なく過ごせば順番に出世し、成果をあげようがあげまいがクビにならない限り「部長」「課長」までは出世できるところもある。マネジメント能力が成果?そんなの関係ねー、おっぱっぴー。
転職面接で〇〇部長として従事、という人を採用してもクソみたいな人間がくるのは、成果と立場が一緒ではない証左だ。
ではでは、X上での「成果」というのは何か?
事業主以外だと仮定すると、上司が放っておいても、勝手にさせておいても大丈夫と思われる信頼感を持たれる人物になるには?という意味ではないかと私は思っている。
放っておいても大丈夫、というのは、勝手にやってその結果の尻ぬぐいをしなくていい、ということである。間違ったことをしない人である。間違わないように、一から十までマニュアル化しなくても、一教えれば十できるような人のことである。
そうなるためにはどうすればよいか?おそらくそうなるためには職務の知識と失敗と成功、両方の経験でカバーするのが通常であろう。だからXでは「行動量」が必要と説く。職務の知識だって、実践してみないことには、その場に行ってみなければ身につかない机上の空論の場合がある。以前書いた本の紹介で、「行動量」は2010年代の自己啓発のトレンドだと書かれていたが、まあ「苦労は勝手でもしろ」を「行動量」に置き換えたようなものであろう。あとは「目端がきく」かどうか、これは先天的な才能でもあり、マネできる上司や先輩がいたら身に就く。
さて。机上の空論を繰り広げて、行動しない人間が偉そうに職場にいないだろうか。彼ら彼女らは、要するに「評論家」である。「評論家」は営利組織においては必要がなく、生きていけるのはマスメディアと大学、ユーチュバーぐらいである。
ただ一方で組織において「評論家」が多数いるのは現実である。黙って座っている「働かないおじさん」より害のある「評論家」がなぜ居座っていることができるか?それは彼ら彼女らが「成果」をあげたからである。
その「成果」は、入社時に”戦力”として自分を着飾って、採用担当者に優秀と認識させた「成果」、クビや左遷されないように社内政治を行ってきた「成果」を上げたから居座れるのである。
私の「成果」の認識は以上のとおりである。多分、Xでの「成果」はバリバリ働いてお客に選ばれて喜ばれて、そして利益をあげることを「成果」と呼んでいるのだろうが、ぶっちゃけ会社に居座るには利益をもたらす成果をあげなくても、口からのでまかせと、社内での立ち振る舞いでどうとでもなる。どうだろう、馬鹿馬鹿しいだろう。働くモチベーションが下がるだろう。
だから、結論は最初に述べたとおりになる。
成果など「どうでもよい」。
…次回に続く。