巧遅は拙速に如かず。急いては事を仕損じる。

仕事とメンタル不調に関する思考バイアスに自分で気づくための日記帳

詭弁と論破 書評:感情に訴えて、閲覧数が多いものが勝つ時代に

久しぶりの書評である。タイトルは「詭弁と論破」。

各章の導入部に、インフルエンサーひろゆき氏が一度発言して、その後ネットで拡散し、子どもの間で流行されたとされる、

「それって、あなたの感想ですよね?」

という言葉が登場する。その感想と彼の論破芸に対する反論本。だが、「論破」に関する記述だけでなく、いわゆるSNSを主戦場とした選挙に対する解説本でもある。

9,000字近い長文になったので、一旦改行。

 

はじめに① 私見:最後まで読むのには骨が折れる

書評をする前にまずはお断り。正直この本は結構難解な文章であり、最後まで読むのに時間がかかった。1日で、または隙間時間で最後まで読むのは容易ではない。特に最後の2つの「議論」「社交」については、歴史に近い。正直実感がわかず、読みにくく、記述から本を読むスピードが落ちてしまって「積ん読」になりかけた。

以下、各章についてまとめる形となるが、著者の真にいいたいことを理解するには、この本を読んでもらったほうが確実だ。

だったら、書評なんて書かなくてもいいのに、というツッコミがあれば、その通りだと肯定する。新聞欄の書評と比較すれば、書評とは程遠い内容。

だが、この本以外にも読みたい本がある。そして、自分が思っていることを書きたい、それだけである。

はじめに② 私見ひろゆき氏の論破芸に関する感想

私がひろゆき氏の本、SNS、ネットでの切り抜きが幅広い支持者を獲得してきたのは、以下の2つだと思っている。

・短文かつ平易な文章で、分かりやすいから

・自分の嫌いな人間を、論破という「言葉」によってで倒す痛快さがあるから

そして、彼を嫌う理由は、1つである

ひろゆき氏によって、自分の信条や生き方を否定されたから

・論破という、他人を嘲笑し、怒らせ、蹴落とす発言に対する嫌悪感

つまり、自分が気に食わない人間を蹴落とす彼を好み、逆に自分の思想信条信念を彼に否定されたから嫌う、という感情的な話である。子どもにうけているのは、おそらく嫌いな教師、親、つまり大人を言葉でやっつけることへの痛快さだろう。子どもは、大人が「やってはいけません」という行為を好むものだ。

勧善懲悪、というわかりやすい水戸黄門のようなやりとりである。それを数分でやってしまう、つまりは50分の番組を10分程度で懲らしめる、痛快さが受けているのであろう。

逆に嫌うのは、その”悪”とされたほうである。この悪を特定し懲らしめるというのは、ひろゆき氏が登場する前のテレビでもやっているし、なんなら他のインフルエンサーでもやっている。ただ、”悪”に決めつけられたら、誰だって反発するし、嫌いになる、それだけのことである。

ただこれは「感情論」。著者はひろゆき氏はディベートの舞台では”怪物”であり、彼と同じ土俵にたってどちらが論破できるか競いあっても、解決することなどない、と説く。一言でいえば、彼と同じ土俵に立った時点で同じ穴のムジナ。彼は論破ショーをする相手に嫌われることを何とも思っていないそうだ。議論を通じて友情を育む気などなく、あくまで金稼ぎの「ショー」、または、相手をやり込めたという満足感のためだと割り切っている。

では、彼の論破芸*1が流行した背景は?議論の歴史的な経緯は?その対処法は?というのを、彼とは別の手法である、長文かつ難解な学術的な表現をしたのが本書である。

はじめに③ 「詭弁」の定義

その前に、タイトルとなっている「詭弁」の定義について、生成AIを使って整理しておこう。

**「詭弁(きべん)」**とは、
一見もっともらしく聞こえるが、実は正しくない論法や言い逃れのことです。

  • **「詭」**は「偽る・だます」という意味。

  • つまり、相手を説得するために、事実をゆがめたり、論理的に不当な手段を使う議論を指します。

特徴

  • 事実をねじ曲げる

  • 関係のない話を持ち出す

  • 相手の感情に訴えて論点をずらす

よくある詭弁・論理の誤謬 10パターン

  1. 論点のすり替えRed Herring
    → 本題から外れた話題を出して、議論をそらす。
    例:「不正をしたのは事実だが、彼はとても努力していた。」

  2. 人身攻撃(Ad Hominem)
    → 相手の主張ではなく、人柄や性格を攻撃する。
    例:「その意見は君が言ってるから信用できない。」

  3. 滑り坂論法(Slippery Slope)
    → 小さなことが必ず大事につながると決めつける。
    例:「この規制を緩めたら、社会が崩壊する!」

  4. 偽因(Post hoc, ergo propter hoc)
    → 因果関係がないのに、「Aの後にBが起きたからAが原因」とする。
    例:「雨の日に交通事故が多い。だから雨は事故を引き起こす。」

  5. 藁人形論法(Straw Man)
    → 相手の主張をわざと極端にして、それを攻撃する。
    例:「彼は増税に反対だって?じゃあ公共サービスを全部やめろというのか?」

  6. 権威への訴え(Appeal to Authority)
    → 権威者や有名人の意見だから正しいとする。
    例:「有名教授が言ってるんだから間違いない。」

  7. 多数派論証(Bandwagon)
    → 多くの人が信じているから正しいとする。
    例:「みんなやってるから、問題ない。」

  8. 偽二分法(False Dilemma)
    → 選択肢を二つだけにして、極端な結論を迫る。
    例:「賛成しないなら、敵だ。」

  9. 感情への訴え(Appeal to Emotion)
    → 論理ではなく、恐怖や同情など感情で説得する。
    例:「この制度に反対するなら、子どもたちを見捨てるのですか?」

  10. 循環論法(Circular Reasoning)
    → 証明したい結論を前提に使う。
    例:「彼が正しいのは、彼がいつも正しいからだ。」

実は、タイトルに「詭弁」という言葉があるが、この本は「詭弁」についての解説はなかった気がする。論破する際に「詭弁」が混じっているが、「詭弁」を解説する本ではない。

上記10パターンのうち、①論理のすり替え、②人身攻撃、⑤藁人形論法、⑧偽二分法は彼に限らず、SNSで他人を攻撃するインフルエンサーがよくする手法なので、生成AIは参考になる。特に、相手を、低所得、低能、犯罪者と否定する手法はよく見かける。「イエスかノーでお答えください」とか、極端な例を挙げるなど偽二分法そのものだ。①は自分のことは棚に上げて他人を否定するコメンテーター、⑤の藁人形論法は、誰か嫌いな人間を貶めたいマスコミの記者たちが好んでやっている。

第1章 論破王の時代

ひろゆき氏は、論破という行為そのものを楽しんでやっているらしい。自分の主張を通したい、自分の考えを広めたい、自分と考えを異にする人の考え方を変えさせたい、という思いではない。彼の論破は事前にどの主張、どの立場に立つか主催者に決められたとしても披露できる。つまり、彼の論破芸において、自分の主義主張は二の次である。著者曰く、プログラマーらしく、ブログラミングで入力する際に行う思考が関わっているらしい。

では、論破は誰のためにやっているのか?

対戦相手ではない。対戦相手が自分の意見に従うことを目的としていない。その議論を見聞きしている”聴衆という第三者”のためにやっている。相手を打ち負かすことで、自分のほうが優れていると、聴衆に認めさせるさせるためにやっている。

そして、これが「ショー」であることもわかってやっている。だれも見ていない場で個人相手にしても意味がない。XをDMでやっても意味がない。そして、自分の主張が広がるかどうかはどうでもよい。そして、「論破」した主張が、世の中に受け入れられるかどうかもどうでもよい。

だから「論破」芸の後に残るのは、信条も考えも主張も方針でもない。ただ勝者としての聴衆からの賛美だけである。

その本質は「実世界で活かされる議論など何もない」という感覚。「論破して、勝ったからといって、どうだというのか?」あなたの目標も頑張りもすべて無意味であると論破できる。彼の主張を聞いた聴衆の頭に残るのは、「自分の人生なんてどうやっても虚無。死ぬまでの暇つぶし」である。

といっても、最近の彼の政治的な主張をたまにネットニュースで見ることがあるが、現実社会で主流派となっている意見に沿ったものにあるように思う。それは彼の考えと合致しているのかはわからないが、彼は現在は論破芸を披露するよりも、大衆受けした主張をするほうがうけると思っているか、彼を過去に論破した某国会議員への当てつけのどれかだろう。少なくともネット社会においても彼は、感情のないロボットではない。

尚、この本には書いていないが、「逆張り」というネットスラングがある。これは彼と堀江〇文氏などが代表格である。ネット界隈の大多数の意見とは真逆のことを、”あえて”いうことで自分に注目を集めさせる手法をとっていることを、ネット利用者から見透かされていることをと指摘している表現である。勿論、彼らもそれは知っているだろ。だが、後の章で語られるように「閲覧数稼ぎ」のためにあえて感情を刺激する言い方で「逆張り」の意見を言っている。

この本が完成し私がこの本を読んでいる時、すでにネット界隈は「論破」芸は持て囃されていなくなっているのでは?というのが私の印象だ。そして、今ネット界隈で流行しているのは、この本の3章に書かれている世界であろう。

第2章 エビデンス至上主義

ひろゆき氏は、理系出身として「エビデンス」に基づいた主張をすることを旨としているらしい。「それって、あなたの感想ですよね?」という言い回しは、裏を返せば、相手の主義・主張・信条・信念・正義を聞いているのではなく、真実、客観的な根拠に基づく話をベースにしていますか?ということになる。

私の記憶では、「ネットで誹謗中傷が多いのは、匿名だから。(その匿名での主張を認めてたのが、ひろゆき氏が管理人を務めた2CHという掲示板)匿名なのが悪い。」という主張に対する反論だったような気がする。そして、彼は同席した著名実業家とあわせて、ネット上の誹謗中傷が蔓延る原因を作った悪”役”という位置づけで、正義の味方”役”の論客から、加害者として裁きを受けるかのような「ショー」に出演していた。そこで彼は逆に、上記のキラーワードを含めて正義の味方”役”を論破したことが、今日の論破芸の発端になった記憶がある。

その言葉が独り歩きし、広まっている。

まあそんな背景は別として、この2章では、彼のその論破芸を支える「エビデンス」がそもそも「客観的な事実」ではないことを例を挙げて説明している。

この世に理系の分野においても絶対的に客観的な発言というのものはなく、主観的な感想が必ず含まれる、という身も蓋もないことをいっている。

昨今、他人からの否定的意見に反論したいときに、または、伝わってくる情報が事実かどうかを確認したいときに「エビデンス」を求める行為は頻繁に行われている。

ただ、他の本において「エビデンス」というのは、ある特定の条件と環境をベースにした科学的根拠、実証結果であり、その実証結果はいつ何時もどんな条件でも同じ結果を示す、つまり、普遍的に「正しい」という意味ではない。「エビデンス」とは”特定の状況下における”、現時点において有効だという科学的な実証結果がでたもの、という前提がつく。

だから、「エビデンス」といって提示しているエビデンスも将来にわたって変わらない不変的な真実などなく、どんな議論に対する「主張」はすべて、「それって、あなたの感想ですよね?」という返答で終わってしまう、議論が成り立たなくなる、という身も蓋もないと著者は主張する。

エビデンス」という言葉の独り歩き。「エビデンス」をもとに主張している、といいつつも、自分の主張を通すために都合のよい結果がでた科学的実験並びに統計データを見つけ出して、それを引用しているのに過ぎない。

 

以下、この本の話から外れて、昨今話題になっている政治の話。

報道は、公平かつ客観的な事実に基づく報道などあるはずもなく、どこかで「偏向」した報道になる。勿論、ものには限度というものがあるが、報道であっても、報じる側の主義主張が必ず入る、ということだ。報道は情報元を秘匿することもあるのだから、誰にとっても納得できる「エビデンス」を提示しなくても、取材をもとにウラをとっているだけでもよいわけであって、その情報源が誤認であったとしても、自分の主張の根拠となる事実など、拡大解釈を含めて、何とでも作り出せる、というわけだ。

この記事を書くときに話題になっていた政治的に「無垢」な人間というのは、そういう都合のいい「エビデンス」をもって語られている政治的な主張をそのまま真に受けている、ということだろう。ただその情報源はSNSに限らずテレビ、新聞、雑誌もどれもそう。極端な話、口コミレベルも含まれる。むしろ裏付ける証拠のない段階の口コミのほうが信用がおける場合がある。それがフェイクであると疑わずに相手の話を純粋に信じる人を「無垢」とモーニングショーのコメンテーターは表現したのだと私は推測している。(その人たちの投票する権利自体を否定するかのような言い方は如何なものかと思うが)

だが、極端な話、世の中を懐疑的に見れば陰謀論にはまる。肯定的に見れば「無垢」と言われる。他人に否定されないためには、事実であるという「エビデンス」を確かめるまで動けないならば、有権者のとれる選択は「投票を棄権する」という選択肢になる。それこそ、現状通りいいなりになったままの「無知」な人間のままである。

第3章 ポスト・トゥルースの時代

そもそも「ポスト・トゥルース」とは何か?生成AIの回答を以下貼り付けてみる。

ポスト・トゥルースpost-truth)」 は、

「事実(真実)よりも感情や個人的信念が、世論や政策決定に大きな影響を与える状況」を指す概念です。

 

  • post(ポスト):〜の後に、を意味しますが、ここでは「真実を超えて」「真実を軽視した状態」というニュアンス。

  • truth(トゥルース):真実、事実。

  • つまり、事実の正確さよりも、人々の感情や価値観のほうが優先される社会の傾向を表します。

もう、生成AIの回答だけで言いたいことは事足りる。

先の章で、エビデンスという事実はいかなる時も事実ではないから、主観、感想にカテゴライズされる、という身も蓋もない話もした。

それでも、普遍的でないにせよ、嘘ではなく「真実」であることを前提として、議論が展開する。「エビデンス」として提示したものが「嘘」「根拠なし」だと反論されたら、その議論自体の中身以前に「エビデンス」が間違っていることをもって、論破されうる。

だが、「ポスト・トゥルース」は違う。もはや、真実かどうかは重要ではない。「エビデンス」など提示する必要すらない。語り手が真実だと認識して話しているかどうかなど、どうでもよい。真実を伝えるよりも、いかに聞き手の感情をどう揺さぶるかどうかが主眼とされる。

この「ポスト・トゥルース」の時代の主役は「ドナルド・トランプ アメリカ合衆国大統領」である。もはや「ショー」の世界ではない。政治、しかも世界の超大国で、地球上の全人類の人生にも影響を及ぼすといっても過言ではない、アメリカ合衆国の大統領が、この感情に訴える手法で大統領に2度就任したという事実。

そして、この「ポスト・トゥルース」が政治の舞台で広がっているのはアメリカ合衆国だけの話ではない。日本の政治の舞台でもすでに発揮されていて久しい。SNSが流行の発端とされるが、SNS以前のテレビや新聞、雑誌でも、事実よりも個人的信念が優先されているのは変わりがない。SNSを主戦場にした、より過激に、より読み手・聞き手の感情に訴えるほうが優位、というが「ポスト・トゥルース」の時代である。

尚、本では、トランプ大統領以前の歴史からこの傾向がどう広まっていったかが紹介されている。解決策も提示されているが、私はその解決策ではトランプ大統領や、それに似た政治家たちに対抗できる、つまり有権者が「事実」をもって「理性的」に解決策を提示する候補者を優位に評価するにはまだ先の話だと思っている。「真実」など一般市民にはわからないのだから。

第4章 集団分極化するソーシャルメディア

この章は、SNSに関する分析である。いわゆるアルゴリズムの解説である。

アルゴリズムによって、見たいものを見るようになって、情報が偏る、という話は誰もがSNSの危険性で聞いたことがあるだろう。

この本ではその先、読者が見たいものを見たいのではなく、読者が見た情報に関連した投稿数のなかで、”閲覧数が多いもの”を優先的に見させられる、と説く。

見たいものしか見ないから悪い、というのだけではSNSの分析は不十分。閲覧数が多いものばかり強制的に見させられている、ということまで認識する必要があるのである。あなたにとって有益だから提供しているのではない。SNSの運営者が、「あなたはこの情報が欲しいのでしょう」と推測しているから悪い、というのではない。

閲覧数が多いものとは何か?

とある特定の話題のなかで、記事が優れているか、とか、真実性があるか、とかではない。事実とか質とかはどうでもよい。とにかく閲覧数という”数字”である。

その”数字”を上げるために手っ取り早いのは、より過激に、誰かを断罪することである。SNSの場合は、より”切り取り”しやすいように発言する政治家のほうが、よりその主張は閲覧され、より多くの聴衆に自分の発言が届き、認知される。

インフルエンサーも、SNSで人気を博す政治家も、その構造を熟知していて、”あえて”過激で”切り取り”しやすいように発言している。

それが広まる危険性を指摘しているのが、この章である。といっても、新聞や雑誌だって見出しは過激である。まずは読んでもらわないと話にならないのだから、SNS以前からこの手法はすでに認知されている。

そして、政治家に関していえば、より”切り取り”しやすい、より感情に訴えるフレーズを使うほうが閲覧数は伸びる。だが政治家個人が暴力的な表現を使うのは、認知されていない駆け出しの頃はともかく、一定程度の広がりを見せれば、汚い言葉はあえてつかわないようにしていると私は感じている。

汚い言葉を使う人間、として、マイナスなイメージで認知されて、票の伸びの足を引っ張ることを理解しているからであろう。汚い言葉を使う人間は敵対する権力者や、敵対する”悪者”扱いされた者に対してのみ有効で、単なる一市民の有権者に汚い言葉を使っても反感を買うだけである。

現にひろゆき氏はあまり汚い言葉を使っているイメージは現時点ではない。知名度はすでに高く、あえて汚い言葉を使うより、冷静に対処し相手を怒らしたほうが、聴衆は自分を勝者として評価することを理解しているからであろう。

尚、某実業家は知名度抜群なのにいまだに「逆張り」意見を汚い言葉を使うことで、SNSの投稿がネットニュースに取り上げられているが、あれは本人の性格による言い方か、汚い言葉を使わないとネットニュースに取り上げられず、アンチが寄ってこないのでインプレッションが稼げないかのどちらかであろう。

それはまるで、SNS以前のテレビ時代全盛の時代。”ご意見番”と呼ばれていて、本職の歌手としてはあまり新聞やテレビに取り上げてもらえなくなった方のようである。

巨万の富を稼ぐ商才はあっても、社会的評価が低いままで、承認欲求が満たされない悲しき商人だと、憐れんだほうが正しい。

第5章 言語化コンプレックスの時代

労働環境において、恋愛場面において、「コミュニケーション能力」が高いほうが評価されるとは、よく聞いたことがあるだろう。

また最近は「言語化能力」とも呼ばれている。アウトプットする能力とも呼ばれている。要するに、他人にわかりやすいように表現できる能力、と呼べるだろうか?

ただ、この「言語化能力」には危険性が伴う。それは、自分自身が「コンテンツ化」してしまうこと、そして「断言」したほうが広がりやすいことである。

無名の芸能人が認知度をあげるために、YouTubeで稼ぐために、自分自身を「コンテンツ化」することはありえよう。だが普段の日常生活の場で、芸能人でもユーチューバーでもないのに、「コンテンツ化」して、自分を商品、ましては消費期限の短い消耗品にしてしまうことに納得のいく人はいまい。まあ、「キャラ」付けすることで友人を増やす、という行為もあったぐらいだから、今に始まったことではないが。

また、評論家、専門家として、結論を断言することを求められる場合もあろう。

世の中、ケースバイケース、…となる可能性が高い(例外もある)、といったほうが正しかったりするが、言語化能力とは、このあいまいな表現は好まれない。

だが、断言すれば、誤解を生み、対立を生みやすい、というデメリットがあることを指摘するのが本章である。

第6章 議論の構造転換

第7章 社交とはなにか

さて、第5章までで、ひろゆき氏に代表される論破芸と、「それってあなたの感想ですよね?」というエビデンス至上主義の危険性が述べられ、そこからトランプ大統領を含めて、SNSで人気を博した政治家たちが使う表現方法に感情を揺さぶられて、真実を見失い、対立と分断を煽られることへの危険性が述べられている。

そして、第6章からは、そんな時代への対処方法として、著者が昔からの「議論」としての前提となる相手への対応などを解説している。

解決策を書くと本のネタバレになるので、第6章と第7章の説明は割愛する。

最後に 私見

以上、この本について一気にまとめて書いた。書評というよりは、自分がわかるように本に書いてないことを含めて平易な文章でまとめた、といったほうが正しかろう。

本のとっかかりはひろゆき氏の「論破」芸と、「それってあなたの感想ですよね?」というフレーズ。だが、ひろゆき氏を糾弾する本ではない。「論破」という手法で一番知名度が高いのがひろゆき氏であり、YouTubeの”切り抜き”をいち早く収益化させて財を成した代表例がひろゆき氏といったほうがよく、ひろゆき氏の発言を章の導入部として、政治家を含めてSNS、ネットの世界で、いかにして自分の支持者を広げたのか、その手法の分析本、といったほうがいいかもしれない。

正直、この本は字が小さいし、色々な引用があって、また引用先の日本語が学術的でサクサクと読める本ではない。だがそれこそ、ひろゆき氏をはじめとする短い言葉で断言する”切り抜き”、”論破”というショーを行う人達への皮肉も入っているのかしれない。

ネットは情報で、本にはノイズがあり、そのノイズが好まれないから本が読まれない、という解説があった本がある。だが、ひろゆき氏やユーチューバーの本は売れているし、サクサク読める。”本”にノイズがある、というよりも、より短文かつ平易な文章で断言するから読みやすいから、読まれるといったほうがいい。

各方面での専門家の意見を拾い上げながら分析し、解説し、そのうで著者の主張を展開すると、短文かつ極論で断言する本よりも、読みづらいからだと私は思うが、いかがであろうか?

しかし、私はそういう本は読みづらいと言いながらも、そういう本をあえて読む。それが「詭弁」に惑わされないためには、自分の思考が偏らないようにするためには、多方面の情報と、歴史と、多く人の主張を、切りとったものでない状態で知ることが必要だと思っているからだ。

*1:「論破王」という肩書も、論破する話し合いも、テレビやネット用の需要に応えた金銭獲得手段であって、プライベートでは人との対立を生むので、しないらしいという話をどこかで聞いたので、あえて”芸”と表現している)