ふと、気づいたことがあったので、メモ。
過去の記事にも書いたが、私は聴覚過敏の傾向が強い、らしい。らしい、と書いたのは、他人からそう言われたから。多分そうなのだろう。
そして、最近、家の近くの工場のようなところで、朝7時前から作業をするようになった。近所迷惑も甚だしいのであるが、ちょっと怖い人達がいるし、他人の土地なので、とてもではないが、そこに乗り込んで文句はいえない。
だが、この音、別に最近に限ったことではない。昔から鳴っている。いつも、というわけではないが、結構な頻度で朝に作業している。
なぜ、今日はそんなにその工事音が気になるのか?
そして、私は機械音に関してはそれほど過敏ではない。人間の甲高い音は苦手だが、自分の聴覚がおかしくなったのではないか?と不安になった。
だが、しばらくして、ふと気づいたのである。たしかに音自体は大きいが、音がすごく気になるときと、それほどでないときがあることに。
その違いは何か?体調、というのも勿論あるだろうが、体調以外で何かある。
そして気づいた。音単体だけでなく、その音が鳴ることに対して、自分が思考して意味をつけるから、その音に対して不快な感情を増幅させていることに。
音に対して意味をつける、ということはどういうことかというと、起こった事実に自分の感想、考えを付け加える、という意味である。
「朝7時前に工事をするなんてけしからん」なぜなら「睡眠不足になる」、「朝のリズムが狂う」から、という自分の生活への悪影響を考えた、だけではない。
「工事をするなら音がでるのは当たり前、そこに文句をつけるほうが神経過敏」
「近所は我慢している。自分だけが苦しんでいるわけではない」
「工事自体は必要なこと。朝7時前にするのは、何かその時間しかできない理由があるかもしれない」
などなど。
自分の心身に悪影響だから、コントロールできないから、腹が立ったり、イライラしたり、不快になったりしているわけではない。
その音が鳴ることに対して、自分なりに理由、理屈をつけて、「仕方がないこと」だと我慢することも、また、音が不快になることを増幅させるのだ。
我慢することはストレスである。どんな理屈があろうとも、正当な理由があろうとも、我慢しないといけないと思ったらストレスになる。理屈ではない。理由を見つけ、自分の感情を抑圧することはストレスなのだ。
もしかしたら、不快感を表にだすよりも、その不快感を理由をつけて自分に納得させて感情を抑圧するほうが長期的に見たら、身体に悪いかもしれない。
ではどうすればいいか?
その音に関しての自分の最初の感情を否定しない。だが、増幅させない。怒る理由をせ塔化する事も、合理的な理由をつけて、自分で自分を納得させ「仕方がない」と思うことも、自分の感情を否定しているわけだ。
だから、何も思考しない。音が鳴っている、そして、いやな感情が湧いた、それでおしまいである。
自分の感情も否定しない。だが、それに対して悪いことも、理由を見つけ出そうと思考する必要もない。
そうすると、そうなると、いつの間にか、その音は、ただそこでなっている「ただの音」となる。それ以上、それ以下でもない。最初に不快な感情が出たとしても、それ以上は深追いしない。そして、最初の不快な感情自体もあれこれ考えない。ほうっておく。
例えは音ではあるが、よくある自己啓発や仏教の本で書かれている「考えないこと」に近いのではないか?と思っている。
「考えないこと」は、正当性を主張するために理屈を考えるだけではない。自分を納得させるように「考える」ことやめることも含まれているのだ。
「仕方がない」という言葉は、自分の感情を押し殺す、という意味でもあり、また、自分の感情をそのまま、放っておく、という意味でもある。
ただ、私にとっては絶対の真実がある。
「私は静寂が好きだ」「私は騒がしい環境が嫌いだ」
この感情自体は否定する必要はないし、負の感情が起きるときは、その逆が自分が好む生活の発見にもなると思う。