巧遅は拙速に如かず

仕事、自己啓発、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

スマホで他人の人生を見たところで、自分の人生が楽しくなるはずがない。

プライベートな話だが、昨日は何か月ぶりに有給休暇を取って1日中色々なところにでかけて所用をすましていた。

そして、今日は服の模様替え、と表現するのが正しいかどうかわからないが、本格的に寒くなったので、秋物を片付けて、冬物にいれかえていた。その際に1回も着なかった秋物はせっかくの機会なので、捨てることにした。だいぶ片付いた。

そうやって過ごすと、なんだかとても気持ちがいいことに気が付いた。

特に遊びに行っていない。特に美味しものを食べたり、旅行に行ったり、念願の欲しいものを買ったわけではない。買ったものと言えば、数年前に購入して、伸びまくって、ダブダブになった「ヒートテック」をちょうどセールしたので買い換えただけだ。

なぜ、気分が良いのだろう?と自問した。

単純に仕事が休み、というのは勿論ある。だが、そこで気が付いた。

休みの日なのに、ネットやスマホSNSやネットニュースを殆ど見ていない」のだ。

かつて、「スマホ脳」という本で、SNSなどの害悪性を読んだことがあるが、まさにそうなのだと我が身をもって知ることになった。

ネットやSNS自体が悪い訳ではない。受動的にネットニュースやSNSを見ていたりする時間というのは、例え暇つぶしであっても、精神的に悪い、ということだ。

これは「スマホ脳」でも書かれているとおりである。SNSは発信者側にとってはプラスで、受信する側の人については精神的に害悪である、と。その理由と言うのは「他人との比較」することなのだ。

誰かが自分”より”充実した人生を送っていることで妬み、自分の人生と”比較して”気落ちする、誰かの意見に影響されて、自分が間違っているのではないかと落ち込む。

他人の発信を視聴し、それに自分の意見を左右される状態はよくない。悪口を読む時間、それに反論する時間、論破?するための時間。それが金儲けのためでなく、楽しい時間を過ごしたといえるのなら、自分の人生を今一度考えなおしたほうがいい。

つまりは、まさに今の自分の行動が、自分が考えたうえでの行動、つまり能動的なのか、それとも他人の意見に従っての行動、つまり受動的なのか、という話である。そして、他人の言動に左右されずに、他人の言動など見聞きせずに、能動的な時間を過ごしていることが自己満足や充実感を得られる。

他人、さらには会ったことももない、自分の人生になんの影響もない、自分の人生の保証をしてくれるわけでもない、インフルエンサーや芸能人の動向など、「心底どうでもよい。」

また、誰かが不特定多数に該当するネガティブな面を取り上げて批判していることなど耳を目を傾ける時間が無駄である、誰かに批判されても受け入れる度量の大きさを見せつける時間が勿体ない。

悪口だけではない。単なる批評や分析を聴く時間、つまり他人の意見を視聴する時間、そしてそれに影響されて動く時間、それが一番精神的に無駄なのだ、と。発信する側にとっては金銭獲得のため、自分の気持ちの整理のため、色々な理由で有効な時間ではな可能性はあるが、聞く側にとっては無駄な時間である。金銭を得られるわけでもない、自分の欲しい情報を手に入れるわけでもない、家族でも友達でもない、そんな人間の意見など聞くだけ無駄である。

他人の意見を事前に聞いて自分の行動を決める、それは失敗しないという意味ではタイパ、コスパは良いかもしれない。だが、それは自己満足度が下がる。

なんでもかんでもレビューを見てから、食べログを見てから決める。それは常に先に誰かに指図されなければ、先に誰かに行動してもらって、その結果を見なければわからない。自分の感性で直感で決める、それは下手をすれば詐欺に騙されたりするかもしれないが、全部そうしてしまうと、人生は楽しくない。

勿論、初めて買おうとする商品をネットで買おうとするならば、レビューや過去の評価などは見るほうがいいとは思う。だがネットやマスコミは見てもらうために敢えて極端なことをいうことを理解しておかないといけないし、サクラレビューもあるし、個人のレビューは腹が立って収まらない時に書くことを念頭に置く必要がある。

結局仕事だってそうだ。仕事も楽しくて仕方がない、と言っている人は、自分がしたいことをしている時間の方が長いからだ。我慢している、お金を稼ぐために、無職にならないために、そんな時間を過ごしているからストレスなのだ。(これは「仕事は楽しいかね?」という本の結論に近かったと記憶している。)

SNSやネットニュースは飲み会と同じだと思う。自分の話をしたい、〇〇と話がしたい、そういうときの飲み会は楽しいが、上司や先輩のお説教や人生訓、同僚の不平不満を聴く時間は時間と金の無駄で、精神的にも負担だ。

飲み会がそうやって廃れていったはずなのに、なぜSNSYouTube動画を見るのか?同じことをしているだけではないか?と。一方的に戯言を聞くなら同じ時間ではないか?飲み会のほうが飯と飲み物があるだけ、良いかもしれないぞ。

旅行だってそうだ。私はGWや正月、盆休みに旅行に行くことがさも常識かのように思われているのがとても不思議であった。休みが決まっているこどもを連れて行く、とかならわかる。大人だけならば、わざわざそんな人ごみと渋滞に巻き込まれるだけの時間をわざわざ一番値段の高い時期を選ばなくても、他の休みに振り替えたほうがいいのではないか?奇跡の9連休?それならば、その9日の間の平日分は働いて、人が働いている時に9連休を代わりに貰える方がいいではないか?と。勿論、仕事の関係上、休めない人が多いというのはわかっている。お盆本来の意味で亡くなった方に会いに行くならわかる。だが、敢えてそれを常識のように思っているのは何故なのか?と思っていた。

そして気が付いた。受動的だからだ、と。誰かに決められて押し付けられるから楽しくないのだと。能動的に、自分が行きたいところに行く。義務感に皆がかられているわけではないことに、今気が付いた。

テレビが楽しくない、という意見もそうだ。そりゃ、テレビは受動的な時間の使い方の代表例だからだ。次回が気になってしかたがないドラマや笑い転げるバラエティにそうそう出会えるものではない。基本は時間つぶしである。365日提供できるわけがない。あたりをひければラッキーと思った方がいい。

結論。

楽しい時間を過ごしたいなら、一方的な他人の意見の垂れ流しである、テレビ、ネット、SNSは、必要な場合を除いて、極力断ちましょう。