最近、仕事が嫌で仕方がない。といっても、仕事は嫌なことが起こりうることは常であるし、娯楽ではないので嫌な気分になること自体を否定しているわけではない。仕事中「嫌だ嫌だ」といって憂鬱になってばかりではない。
だが問題は、最近特に朝起きた瞬間、会社にいくのがひどく憂鬱なのだ。そして朝起きた瞬間に憂鬱になる理由がわからない。
だから、その理由を考えていた。最近と過去と比較すれば何か違いがあるから憂鬱になるのではないかと。
まず、去年と比較して私はかなり怒らないようになった。内心は多々怒っているが、怒りを口にだしていない、といったほうが正しい。
それは「自分が軽んじられるべきではない」「自分が評価されるべき、尊重されるべき」「自分の扱いが不公平である」「あいつより自分のほうを評価し、頼るべき」という、いやゆる「自己の承認欲求」、そして「他人への考えへの干渉」であると気づいたから。
そして、怒らないで周囲の様子を窺う姿勢をとっていると、電話や来客者がクレームをいれてくる背景も想像できるようになった。
要するに、クレームをいれていくる他人も、自分のように自分を否定された、軽んじられたと思っているから、そして失敗したと責任を問われるのが嫌だから責任転嫁のために怒るのだ。不安だから怖いから怒るのだ。完璧を求めているから怒るのだ。
それに最近、人は3か月先の何月何日まで遅れる、という連絡よりも、時期未定という定まらない日のほうを嫌うらしい。遅れるのもムカつくが、それよりも予測できないことのほうが不安を覚えるかららしい。
そして、組織の責任者にクレームを入れてくる相手は、責任者にクレームを入れれば自己の主張がとおる可能性があるだろう、と思っているからだと思っていた。責任者は責任をとるのが怖い人が結構いる。事なかれ主義に走った結果、クレームをおさめるために例外的にクレーム相手の主張を飲む責任者がいる。それを知っているからクレームをいれる。これが私のこれまでの認識。
だが、クレームというものの実態は、「自分を軽んじている」「自分が否定されている」「自分の扱いが不公平である」「自分の意見は尊重されるべき」「自分が考えていることを実行すべき」だと思っている人が多いからであろう。
このように怒る理由がわかると、周りが俯瞰できる。怒る理由を探ることで自分を見つめなおすことができる。他人が起こる理由もおぼろげながら想像できる。
そうすると、予期不安というのが減っていく。不安というのは、怒られるかもしれない、失敗して損失を被るかもしれないという恐怖心からくるもの、と気づいたからだ。
そして、怒る相手というのも同じ理由で怒るわけであり、その怒る理由は相手の主観であり、認識であり、言語に対する理解力であり、認識も考えも違う他人どおしが、言葉でやり取りしている以上、どれだけ礼を尽くしても、どれだけ懇切丁寧に時間をかけて説明しても、悪く認識する人、お互いの認識に差がでてしまい、「前といっていることと違う」と怒る人が一定数いる、ということも気づいた。
話せばわかる。それは理想論。話してもわからない人はいる。だから、相手と認識がズレてもしかたがないのである。
そう、頭では理解できた。
さて、最初の命題で「仕事が憂鬱」な理由を探しているのに、なぜ「怒らないことで見えてきたこと」を説明したのかは、この後続く憂鬱な理由の前提となるからだ。
そう、怒る理由が理解できたことで、今、仕事が嫌になっているのだ。
その嫌になる理由を考えてみると、他人から「怒られないこと」を最優先にして仕事をしていることに気づいたからだ。怒られないことを第一に考えた仕事のやり方に組織全体がなっていることに気づいたからだ。
そして自分もいつか今の組織に考えに染まっていることに気づく。
私が職場で怒っていたのは、実は他人からの否定、軽視されないための恐怖心や不安感からきていることに気づいたからだ。
この組織は「失敗しないこと」、「悪いことを見抜くこと」、「第三者から文句をいわれないように体裁を保つこと」、「他人からクレームを言われたら、正しいかどうかは度外視で、波風を立てないことに謝罪すること」が前提となっている。
クレームを入れられたら自動的に謝罪に繋がるので、クレームを入れられないための仕事ぶりになる。組織の発展や方針に従って行動するのではない。
クレームの内容が的確かどうかではない。クレーム自体を受けないことが職場の方針なのである。
クレームを入れられないためにはまずどうすればいいか。
それは「失敗しないこと」である。「失敗する可能性があることには挑戦しないことである」「他人から指摘されれないことを優先して決断、判断すること」である。
他人に対して「この仕事のやり方は失敗ではないか?」と、過去にやってきたことの説明を求める上司や同僚がいる。その本心は、指摘する相手のためにやっているのではない。自分が失敗した、失敗を見逃した、といわれないための自己防衛策である。
だからその指摘する人間は失敗しないことを最優先として仕事をしているので、仕事の速度を無視した、挑戦する気も自分で決断する勇気もない安全運転である。自分が悪くないことを証明するために、法律や前例や上司に先に決断を求める。自分から提案しない。だれかに決断への責任を転嫁して、失敗しないことを優先とした仕事をする。
そういう指摘をする人間が蔓延ると、組織は停滞する。挑戦しないからだ。決断しないからだ。新しいことをしないからだ。
そして、今、自分もまた、上記のような指摘をする人間に対応するために、失敗を見逃した、という責任から逃れるための、保身のための、自己防衛策としての、他人の粗探しに付き合いたくないがために、失敗しないように、ミスを見逃さないように、対処することがまず仕事の前提になっていることに気づいた。
ちなみに仕事内容は身バレしないようにぼやかしているが、その失敗とは、安全のためではない。治安を守るためではない。平和を守るためではない。敵に点を取られないように鉄壁の守備をしているわけではない。欠陥品を製造して事故を起こさないようにしているのではない。
単に、自分の失敗を他人から指摘されないためである。挑戦しないと売り上げは右肩下がりなのに、横並び意識の強い、出過ぎた杭と思われないための相互監視の怯えた職場環境である。
この仕事ぶりが嫌で仕方がないので憂鬱になるのに気づいたわけだ。「あ、おれは〇〇氏や、顧客から文句をいわれないことを第一に考えて仕事をしている」、と。
他人の間違い探しをするような、他人に間違いを見つけさせないためのコソコソした仕事は非常につまらない。性に合わない。
思えば今の仕事で面白味を感じていた時は、アイデアを出し、よりよい改善案を提示し、また、アイデアをより洗練させるために議論をして、実行に移すことができたときであった。失敗することで、知らないことを知る、それは好奇心を刺激した。休日に仕事をしてもそれほど苦ではなかった。
それが今や殆どない。私が以前よく怒っていたのは、自分の承認欲求と、悪く言わせないための防衛でもあったが、アイデアを採用させたいがため、会社をより発展させている、それに貢献したと感じたい、つまりは「他者貢献」という側面もあったと思う。
怒らないということで、今この時に集中すること、さぞかし充実感があるかと思いきや、ひどく億劫になっている。それは、集中したことで、失敗しないよう、悪く言われないよう、そのことを第一に考えていることに気づけたからだ。よりよくさせるため、改善させるため、会社や世の中をよりよくさせるためではない。
失敗しないため、失敗だといわれないためである。発展もない。集中して他人に悪く言われないように仕事をしているだけである。
だから今仕事が終わった後に心に残るのは、達成感でも充実感でも成長した感じでもなく、失敗しなかった、失敗するリスクを避けたという安堵である。
失敗を避けようとすればするほど、より新しいことに不安がよぎる、という仕組みだ。失敗して成長したわけではなく、失敗をさけるために失敗するリスクから逃げてやり過ごす術が身についているだけだ。
同僚の昼休み中の会話を聞いてみる。すると話は、明日の休日のライブのことを、次の連休の旅行の話を。仕事終わりの飲み会のことを話している。
仕事は余暇を楽しむための金稼ぎの手段。労働時間はただの苦行。その側面自体は否定しない。
だが、私は違う。飲むとしてもそれは仕事への達成感もあり、成功を祝したものでありたい。終業後、休日の過ごし方で話が盛り上がる職場にい続けることを求めていない。
そういえば、YouTubeを見ていた時、とある実業家が若かりし頃、職場を1日で辞めた時の理由を話していた。曰く、入社一日目、同僚が昼休憩とか仕事中の会話がは、その日の終業後のことばかりなのを聞いて、それでここは自分の居場所ではないと思い辞めた、らしい。
私もこの意見に大いに同意した。あくまで仕事中は今の仕事をよりよくするために考えたい。余暇も息抜きも必要だが、仕事中に仕事が終わった後のことばかり話している職場の人間とは関わりたくはない。
思えば、メンタル疾患前の職場では、仕事の話を良くしていた。仕事後も仕事の話をしていた。メンタル疾患になって、仕事中心の自分がいけなかったのではないか?と思い、仕事熱心な職場を避けていた。だがそこには何も達成感も充実感も発展性もない。ただの人生の浪費である。
自分はどうしたいか?どうすべきか?会社はどうあるべきか?
そこに愚痴が入ろうとも、説教が入ろうとも、何とかよりよくしたい、何とか成長してほしい、という現れでもある。プライベートの話をしてはいけない、という意味ではない。仕事の話がしたい。
それが今は、メンタル疾患後の仕事では、休憩中は仕事以外の話ばかりだ。
仕事は苦行、生きていくための手段。その事実を否定する気はない。
だが、人生の時間の大半を仕事の時間に費やす以上、その仕事の時間にも情熱を捧げたい。夢中になる、とかいうと変な宗教チックな職場で、遣り甲斐搾取のような奴隷職場が注目されたりするが、やはり仕事中はあっというまに時がたってしまったと思える時間にしたい。
それが今の職場ではないのだ。
いまの同僚たちと仕事場において、向かっている方向が、どういたいか、という価値観が違うのだ。定年後、または子供が大人になり家をでて、家にいても暇なので、暇つぶしに来ているのだ。家庭第一で家計の足しにするために来た人たちばかりなのだ。定期異動としてきて、今は問題を起こさず次の定期異動で自分の希望先に行けるのを持っている人ばかりなのだ。
そのことに気づいた。勿論私の主観である。だが、あながち間違っていないと思う。皆が皆最初からそうだったわけではないが、事なかれ主義が充満しているのだ。
だとしたら、この人たちと一緒にいても苦行でしかない。気遣いをするだけの人でしかない。雰囲気を壊さないがための遠慮する間柄でしかない。
それに気づいたから、仕事場にいるのが嫌なのだ、と気づいた。
そして、気づいただけで終わってはダメなのだ。他人の批判だけならば、終業後のライブの時間を考えている人のほうがよっぽど有意義だ。
気づいたのなら、自分はどうしたいのか考え、そして自分がしたいことができるように行動するところまでいかないとダメなのだ。
といいつつ、まだ答えがでていない。答えが出ない以上は、他人の批判を口にしない。
価値観が違うだけで批判することはない。批判したいと思うということは、自分が求めていることと違うからであり、自分がするべきことは批判をするのではなく、批判したい理由から自分が求めていることに気づき、そしてその求めていることをえるために行動することなのだ。
今のところはまだ答えが出ない。やみくもに行動するのではなく、目的をもって行動しないといけないが、今日の記事はあくまで自分の気持ちの整理としての言語化のための記事である。