巧遅は拙速に如かず。急いては事を仕損じる。

仕事とメンタル不調に関する思考バイアスに自分で気づくための日記帳

見返りを前提とした気遣いなど不要。かえって腹がたつだけ。

新卒の頃、上司や先輩にこう叱責された。

「お前は、気が利かないなあ」

以来、20代の頃から上司や先輩に気を使った。

接待の場等では、ビールが空になったらすかさず組んで。ビールの瓶の銘柄を上にして、日本酒の口の向きを気にして、食事の進み具合をみて、串から外して、鍋ものは配って。気を遣って。

困っているお客様が会社近くにいたらすかさず声をかけて。スルー厳禁、常に歩ている時、急いでいる時も、歩行時には周りに気を遣って。

移動する時は、車の座り位置、エレベーターの立ち位置に気を使って。長幼の情を知らない人間だと思われないように気を遣って。

相手が話している時は、傾聴して。寄り添って。上から目線といわれないように言葉遣いを丁寧に、気を遣って。

服装には気を遣って。身だしなみはもちろん、お客様にあわせて、場違いにならないように、価格帯を気にしたスーツを着て、金持ちで嫌味だと思われないように気を遣って。

それは仕事においては自然にできるようになれば、きっと役に立つ。

そうこれまで、思っていた。そして今でも間違いではない、とは思っている。

ただ、これは現在の職場は、ほぼ不要、と断言してもいいのではないかと思う。

いや、私の場合は過剰に気にしすぎて、本題が疎かになっていて、本末転倒になっていると思った。やり過ぎだと思った。

そもそも、気を遣う、という言葉の定義は、相手の状況や感情に合わせて心を配る、他者への細やかな配慮という意味だそうだ。

ただ、その相手の状況や感情に合わせる、というのが今はとても難しい。というか、相手の状況や感情など他人にわかるわけがない。こっちの勝手な推測であり、マナーでしかない。

相手の状況や感情に合わせたつもりでも、全く会っていない場合も結構あるのだ。

そしてなにより、気を遣ったのに、逆に悪い風に相手に解釈された時に、無性に、異常に腹が立つ。

そこで気づく。気を遣っているつもりでも、実は相手にもその気遣いに気づいてもらうという相手の察知能力を期待していることを。そして、感謝してもらうことを。社会のマナーを守っていることを。相手に優しくしてあげているのだから、自分に対しても、優しく接してほしい、という期待がある。

自分が失敗したときに、いつも気を遣ってもらっているので、と寛大な対応を要求している。

自分に敵対心を持たないように、相手に尻尾を振っている自分に気づく。相手に甘えている自分に気づく。

また、昨今、職場に対してマナーや気配りの指導をほとんどしなくなった。注意をしなくなった。小さなミスを指摘しなくなった。大きなミスも逆恨みやパワハラといわれるのを恐れているのか、本人にわからないように処理するようになってきた。過去の常識が通じなくなってきた。

何よりも、他人には気配りを要求する癖に、自分は気を配らない人間が増えたし、また身勝手で自己本位だとかつては干されていたタイプの人間のほうが、今は本来の自分の仕事に集中できて成果をあげている現状がある。

超えてはいけない一定のラインだけをこえないようにして、それ以外は気を遣わない、傍若無人のような振る舞いをする人間のほうがかえって成功する。

気を遣い続けると相手のためになっているかというと、意外とそうではない。その気遣いが当たり前になって、ちょとした相手との認識のズレで「自分だけ蚊帳の外におかれている」と認識する。「そんなの聞いていない」と怒りを生む。

アイツは気を遣えない、という認識を他人にされたほうが得をする。あいつは変わっている、癖がある、という人間のほうが得をする。

そもそもが間違っているのだ。相手の気持ちなどわかるはずがない。相手がひとつの言動でどう反応するかは、相手次第だし、相手もその時々で変わる。気を利かせたつもりが、全く的外れな気遣いになっている場合、逆効果になっている場合が増えてきた。

そして、相手の我慢がたまって、ふとした瞬間に爆発して、意味のわからない文句を聞く羽目になる。「先にいえよ」「こちらが気を利かせているのに、何をいっているんだ」とこちらも腹が立つ。売り言葉に買い言葉になる。

相手には相手の都合がある。相手のペースがある。自分の知らない事情がある。

その気遣いは、ただの自分の憶測、これまで生きていた皆が守るべきマナーだと誤解しているのに過ぎない可能性がある。マナーなんて、時の流れとともに変わる。地域によって変わる。職場によって変わる。相手によって変わる。ずっと追いかけていたら、身が持たない。

具体例をあげよう。

相手に気を遣うというのは、電話をかけるタイミングのようなものである。

昨今は携帯電話に掛ける場合が増えてきた。そのせいで、相手が有給休暇中だったり、車の運転中だったり、外出中だったり、電車の中だったりする場合がある。

私は気を遣って、電話をかける時間を9時、17時、12時、お盆休み、年末年始の前後、年度末、年度初めとかにかけないようにしていたが、本当にその相手にとって都合のいい時間などこちらがわかるはずなどないのだ。

それに都合が良くても、相手が機嫌が悪い時や、忙しい時にかけたら、邪魔である。そもそも電話自体が相手の行動を妨げる行為なのだから、どう気を配っても邪魔である。

ではメールで連絡するとしたら、相手が膨大なメールのなかで見落としたり、忘れていたりして、その見過ごしを「なぜ電話してこなかった、直接話をしなかった」という始末である。

では、どうやって電話をかければいいか?というと、自分の都合で電話をかけるのが正解である。相手がこの人、この時間をさけて、と言っている時間と、寝ている時間以外はこちらの都合でもいい。なぜなら、どの時間にかけても、相手にとっては迷惑だし、見えない相手にとってどの時間が迷惑なのかは、わからない。正解を求めるほうが間違い。

この電話をかけるタイミングと同じで、相手に気遣っているようで、実は勝手な憶測でしかない場合がある。

では、その電話をかける気遣い、というのはどうして生まれてたのか、というと、私の場合は、20代頃の常識で判断しているわけだ。他の人も、学卒の時の入社教育での常識がベースだろう。携帯電話を仕事で支給されない時代の気遣いだ。

そもそも、なぜ自分が気を遣っているかは「お前は気が利かないなあ」と言われた若かりし頃と同じように思われたくない、という自己保身でしかない。その批判が心に残っただけである。

お・も・て・な・し」は日本独特の気遣いだそうだが、身も蓋もないことをいえば、これまでのお客の対応データの蓄積である。過去の成功体験と失敗体験を踏まえて日更新される「顧客満足度向上マニュアル」を「そつなくこなす」だけである。脳内に経験としてインプットしているか、データベース化して共有されているかの違いである。

自分が腹が立つ原因は、相手に期待しすぎているからだ。それに他人が腹が立つ原因なんて、他人の都合、勝手であり、気遣うことでコントロールしようと非生産的であるのだ。

以下、まとめ。

ここまで書いておいてなんだが、「他人に気を遣うな」という意味ではない。

金銭という対価を得るのは、「お客が求めていることに応える」ことであり、お客が求めていることを察知すべく気遣うこと自体を否定するつもりは毛頭ない。

他人に気を遣ったのに、相手がそれに気づかないことに怒るぐらいならば、相手が悪く受け取った場合に腹が立つのは、それは見返りを求めているから、それが相手のためだと自分が勝手に認識しているだけ

過剰な気遣いなど今どきしなくてもよい。最低限のルールさえ守ればよい。こちらの気遣いが相手に通じた場合は「ラッキー」と思うのがおそらく正しい。見返りを求めない「他者貢献」だと思ったほうが気が楽だ。

他人は他人の都合で動く。自分も自分の都合で動く。「あいつは気が利かない」と思うときは、相手が自分の思い通りに動くことを当然だと思っている証拠である。他人が自分に気を遣うことを当然だと思わない。

特に最近は、そういう気遣いは車内の評価の対象外だから、あまり社内教育を受けていない印象がある。また、就職氷河期世代が少なすぎて、技術やスキルだけでなく、そういうマナーやルールの継承もできていない印象がある。

ただ、技術やスキルはともかく、マナー教師が仕事上作り出したマナーのようなもの強要や、年上が年下に強要しているのに過ぎないものや、一部、一時だけにしか通じない過剰な気遣いや礼儀は、断絶されてもいいとは思っているが。

だから、気を遣いすぎていると自覚のある人は、気を遣わないと思うぐらいでちょうどよいぐらいになったりするものだし、そもそもその気遣いは、他者から批判されないための気遣い。他者からの批判を恐れている自分を自覚したほうがいい。

多分、SNSでよく正義感で他者を糾弾している人、マナーや礼儀作法を守っていない人、失言をした人、を過剰に責め続けている人は、普段の日常生活で、逆に周りから、社会常識、マナー、礼儀、正しさ、配慮、などを求めらすぎていて、その我慢の反動で、またはそのルールを守ったせいで理不尽な目にあった人が、自分が守らされているルールなどを逸脱している人を目にして、衝動的に怒りを露わにしているのでは?と根拠なく推測している。

 

という、自分に向けての教訓、推測を書きだして、自分の怒りを整理した次第である。