巧遅は拙速に如かず。急いては事を仕損じる。

仕事とメンタル不調に関する思考バイアスに自分で気づくための日記帳

他人の言動をすべてスルー出来れば、ストレスはほぼなくなる。

だいぶ前に記事で書いた話の繰り返しになるが、今朝急に思い出した話を記録として残したい。

私が約15年前にメンタル疾患で入院していた当時の医師の話である。

その医師がいうには、メンタル不調から回復する、俗にいうストレスから解放される方法はいたってシンプルであるとして、以下の事柄を説明した。(実際はイラストで説明してくれた)

「他人に悪口をいわれた、褒められた、怒られたときに、怒らない、怖がらない、悲しまない、反論しない、喜ばない。他人を全く気にしなくなれば、ストレスからもメンタル不調からも解放される。」

「他人に悪口をいわれて怒ったり悲しむから、褒められて喜ぶから、ストレスもメンタル不調も発生する。」

「他人からの言動に”全く”反応しないということは、一般人が俗世間で生きていくなかでは不可能。それはもう悟りを開いた出家した人の域に入る。俗世間にいてそうなれる人は世の中で数人程度。」

「ただ、反応しない時間を増やす、反応する時間を減らす、つまり反応したとしても、反応したことに自分で気づいて、反応しない状態に戻すことができれば、別に悟りを開かなくても、メンタル不調にならずに生きていける。」

といった趣旨の発言であった。(今覚えているのは、こんな話だった)

当時の私は、この話を聞いてなぜ褒められて喜んではいけないのか?と反発していた。

だが違うのである。褒められて喜ぶ、ということは、褒められたいという意識があるということ。褒められたいために無理をする、無茶をする、期待する、つまり、相手のためになるだろうと自分で考えて相手中心の行動になる。ついには自分は褒められないといけないという意識にもなる。そこから、相手がこういう言動をとるべきだ、相手がこういう言動をとらなかったのはおかしい、とか、自分の行動が間違っているのかと不安になったりする。

別に褒められようが褒めまいがどちらでもいい、という考えならば、他者中心でなく自分中心になる。自分がこうしたい、こうやろうと思ったうえでの行動に相手の反応の期待や失望を載せなければ、どう行動しようが問題はない。

失敗を恐れる、行動を躊躇するのは、他人が自分の失敗に対して叱ったり怒ったりしないか、バカにしないか気にするから、引きづるからそうなる。相手が批判しようがしまいがどちらでもよいと思っていれば、法律を犯さない限りは、自分中心の行動に制限がかからない。

仕事が嫌だな、というのは突き詰めていけば、他人から批判される、他人が自分のクビをきるのではないか、と他人の言動を気にしているからである。クビになる時は、どう思おうがクビになる。仕事は成果、しかも会社全体の成果。自分ひとりではどうしようもないことだから自分がやれることをやるしかないわけで、他人がどう思おうと自分ができることは限られる。それに他人がクビにするときは、日本の場合はしかるべき手続きを踏むか、経営難に陥るときか、人件費削減されたときであって、他人の言動を気にしていても時間の浪費でしかない。

Aという人間が嫌いだな、というのは、どこかでAの言動により自分の被害がでないか気にしているからだ。Aが自分が正しいと思う行為をしていないからだ。Aが自分より評価されているからだ。そのAに対しどうこう思うのは、自分がAを気にしているからだ。直接危害を受けそうな場合を除けば、Aという存在を、Aの言動を気にしなければ、Aが嫌いだ、と言う不快な時間は減る。別にAを好きになる必要もない。Aが嫌いでもいい。Aの言動に心を動かさなければいい。

といっても、上記のことができないから、自己啓発の本が売れる。私も自己啓発の本を買うのは結局は他人を無視できないからだ。なんとか、気にしないようにできないか、と思っているからそういう本を買うのである。

でも本を読んで、その時に一瞬反応しないようになったとしてもしばらくしたら、やっぱり反応する。だから自己啓発の本は作者を変え、タイトルを変え、表現を変え、発売され続ける。「反応しない」「気にしない」「いい人を辞める」「嫌われる勇気」「記憶から消す」「自己肯定」「レジリエンス」…色々なタイトルで色々なやり方、どうして相手が気になるかという理由が示されるが、結局、根っこは同じ。他人を気にするな、という内容をどう表現するかぐらいの違いだ。

反応することをやめることなんて不可能。嫌いな者に対して好きな人のように振る舞うなんて不愉快。それが当たり前のこと。

では、どうするかというと反応する時間、気にする時間をなくすのではなく、減らせばいい。今より少しの時間でも。安全地帯から少し外れてみればいい。そうすると世界は変わる。

他人の賛辞や批判は、自分が思った通りにはならないことがわかる。想定していない時に批判や賛辞はくるものだということがわかる。だったら、先読みする時間、感情を動かす時間を減らしていける。減らしていければ、ストレスは減る。

いざとなったら、どうしようもなくなったら会社を辞めればいい。いやな記憶は残る。なぜ自分が損をしないといけないかと思う。相手が前の職場で自分のことを笑っている、文句をいっていると想像してしまうからだ。だが記憶はいづれ消える。その相手は、その職場への感情は自分の頭から消えてしまう。私の場合、前職への怒りはだいたい3年ぐらいでなくなった。

それは何故か?単に、他の人間で今身近にいる人間や組織などの怒りに上書きされて、今の怒りが上回るからだ。

以前の記事にも書いたが、私は何故他人の言動を気にしているか、ということを「それは何故?」とカウンセラーにいわれて「仕事を失うから」と答えた。

それがストレスの原因だ。「仕事を失わないようにしないといけない」と思うからだ。

そのために何を自分がしているのか?というと突き詰めてけば「上司や同僚の評価を下げないこと」であった。上司や同僚の評価を下げる、言い換えれば、上司や同僚から好かれる、嫌われないこと。そして上司や同僚から嫌われていないか、好かれているか気にして、彼らの言動に反応しているからだ。

たしかに上司が嫌って仕事を失う場合もあるが、それは顔色を窺っていれば嫌われない、と思ったら大間違いで、自分が相手から嫌がられている言動というのは、自分ではえてして気づいていないのだ。だから気にしても仕方がない。全く気にしないのも、それは仕事としては問題だが、長時間気にしても仕方がない、というわけで、何かやってしまったら、その後リカバリーすればいいのであって、嫌われた瞬間に反応したからといっても嫌われたままで、問題は解決しないのである。

尚、仕事を失うことを気にしすぎた私は結局仕事を失ったが、今、別の仕事についている。今の仕事を失うことで人生が終わる、というわけではない。無職もつらいが、我慢してその職にしがみついている時間も辛い。そうしがみついていたらメンタル疾患になり、病気のうえ、仕事を失うことになる。だったら、どう生きるかというのは答えがでているはずだ。

自己啓発本の作者を見てほしい。大抵は個人事業主である。誰かに雇われていない。特定の誰かに自己の収入を依存していない。特定の仕事に執着していない。仕事なんて、どうにでもなる、どうにかなる、という経験から、本当に、”あまり”他人を気にしない人になっている、かもしれない。

尚、著者が本当に気にしないかどうかは、本人しかわからないから探っても仕方がないが、私はある程度は”気にしている”と思う。仕事は他者の希望に貢献できるかどうか。他人が求めているモノを察知できるから、稼げる個人事業主なのであって、私の推測だが、多分他人の不快な言動によって自己の活動を左右されない、切替ができる人が多いのだと思っている。本当に気にしていないのならば、本にするためには記憶に残っていないはずだ。

だから、完全に気にしないことまでは、求めないでいいと思う。