けーせらーせらー

仕事、メンタル、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

幸せハラスメント

最近「幸せハラスメント」という言葉を知った。なんでも結婚したという「幸せ」な事実を見せつけてくる行為が「ハラスメント=嫌がらせ」である、と。

なるほど、そう思うときがあるのは確かだ。

ではなぜ、そう思うのか。

ひとつは自分基準。

自分が今幸せを感じてはいないから。自分が幸せに今なれていないのに、他人が幸せになったことに対する悔しさ。自分が愛する人と結婚できなかった、またはできていない、またはできる可能性を今見いだせていないことと比較したくやしさ。自分が結婚したいのにその結婚に向けて十分な活動をしていなかった今更気づいた焦燥感と自己卑下。

そして他人基準。

同世代の結婚が報じられると近くの人間に必ずこう言われるはず。

「あなた(お前)も頑張れよ。」「あなた(お前)が結婚できないのは〇〇が足りないからだ」

結婚自体はめでたいことだ。祝福である。ただ上記の意見を言われたら、または何度も言われた記憶のある人の胸中は穏やかではない。苦しい。悔しい。そしてそれを結婚された方に負の感情をぶつけてしまう人もいるだろう。別に結婚していない人のことを気にしろ、自粛しろと言っているわけではない。幸せについては自粛厨なんてレッテルは的外れ。その知らせを口実に誰かに傷つけられた経験がある人にしかわからない。だからSNSで愚痴を吐き出したいという胸中は痛いほどわかる。特定の個人への誹謗中傷でないのなら、私はその愚痴を見つけ出して拡散して複数人で寄ってたかって文句をいう人間の方に問題があると思う。まあSNSという誰でも見られるものに一時の感情をあげない方がいいと思うが。

他人と社会は「結婚」していない人間を必ず見下す。見下すぐらいならまだかわいいほうで、人間性か社会性に欠陥がある人間ではいかと危険人物扱いしてくる。年を重ねるにつれその扱いはひどくなる。

他人や社会がそう評価することを知っているがゆえに、誰かが先に「結婚」しそのレッテル張りから抜けたという事実を知らされることで、自分がいまだにそのレッテルから抜け出していない現実に否応がなしに向きあわさせられることになる。

でも他人は他人。他人に認めてもらうために結婚しても幸せにはならない。人間社会から危険人物扱いされようが所詮は他人の意見。他人の評価を気にして結婚したとしても、他人というのはなんらかの理由をつけてあなたを見下す要因を見つけるのだ。やれ子供がいないだの、やれ子供の学校がどうだの、子どもの入った会社がどうだの、旦那の仕事や収入がどうだのと、今の住んでいる家がどうだの、と。

自分が得たい幸せを掴めていないことに対して悔しいと思うことは当然。しかし、他人に認めてもらおうとしたって、他人はいつだってあなたを見下せるようにあなたを観察している。他人からのレッテルから逃れようとしても、他人はいつかどこかでなにかのレッテルをあなたに張るものである。

他人が幸せになること自体はハラスメントではない。そもそも他人の幸せなど他人が自慢してこない限りは数日後に忘れている。しかし、他人がその知らせを利用してあなたを見下すというハラスメントは存在する。そしてそれは生きている限り手を変え品を変え永遠に続く。だから他人がどうなろうと気にする必要はない。

芸能人の結婚?しばらくしたら忘れる。好きな芸能人が結婚したら一時的にショックかもしれないが、その芸能人が液晶画面の向こうにしかいない人であり、その人について何もしらないことに気づく。憧れが生じていた幻想にいたのだと現実に戻る。無理に祝福したりして、度量のあるふりをしなくてもよい。”許してやれよ”など、お前はその芸能人の両親か?と突っ込みをいれたくなるぐらい混乱しなくてもよい。SNSで攻撃する必要もCDを割る必要もない。一時の負の感情に振り回されて他人のプライベートに対し、ネット上でその芸能人に対し何か反応する必要性がそもそもないのだから。

SNSをやめる。ネットニュースや芸能ニュースを見るのをやめる。それが一番だ。