さて、前回の記事で唐突に「度胸」の話を書いた。それは何故かというと、今の仕事を辞めて、新しいことにチャレンジしたいが、なかなかチャレンジする「度胸」のない自分に対する叱責である。
過去の記事に書いた「ノイズハラスメント」男とは部署が変わった。ずっと怒りを抑える方法を本で読んでいて、実践して、かなり「怒り」のコントロールについてできるようになった。というか、怒らなくなった。
では、外部への不満と、怒りが収まってきたら、何が残ったか?
それは「仕事のつまらなさ」である。

不満や怒りというのは、突き詰めていけば、組織や周りに対する期待があるからこそである。こうあるべき、こうしたい、という思いがあるから、周りに対して不満や怒りがでてくる。そして、怒りを抑えるためには、その他人や組織に期待をしなければよい。
周りの人間というのは仕事との繋がりが強い。周りの人間への注文=仕事に対する期待といってもいい。個人プレイでする仕事であればそうではない場合もあろうが、今の部署は団体プレイといえば聞こえがいいが、悪く言えば同じ判断基準で同じ方針をとり同じ行動をとる組織である。よく言えば、担当する人によっていうことが違う、ということが少ない一貫した言動をとるので、お客にとっては良い対応である。
だがこれが絶望的につまらない。周りに合わせるということは、周りの顔色を窺うということでもある。「みんなでお手てつないで、一緒に横断歩道を歩きましょう」である。安全重視だが、そこに自分の意志も意向もない。
だから、組織の方針や決め事に対して、自分が思っていることを反映しようとするから、その方針は違うと思うから、対立するし、怒りが出てくるし、不満が出てくる。怒らないということは、誰かの方針に対し反論せずに、従うだけのことである。もはや意思を持たないロボットである。何が楽しいんだ、そんな仕事?その時間に何の価値があるんだ?
自分が方針を決める立場になるよう、出世するという手段をとることもあろう。それはアリだと思う。だが今の職場での私はその出世という手段がとれない。専門職の非正規であって、管理職はほかのところから定期異動でやってくる仕組み。管理職も専門職も特定の誰かが暴走しないよう、属人化させないようにするためには良い人事制度だとは思うが、その構成員としては実につまらない。
「いわれた通りやる」
「嫌なこと、マイナス評価になりそうなことは次の人に回すように引き延ばす」
「次の定期異動までひたすら我慢する」
「自ら動かず、ただ労働時間が終わるのを待つ」
勿論、仕事は「労働の対価」であり、対価が労働に見合うものならばそれで良し、と考えるのもアリだろう。同僚にもその考えを持っている人はいる。くだらない仕事でも給料はそれなりにあるので、家庭第一、今の仕事は家庭を維持するための十分な給料の確保の手段と割り切っているからだ。
だが繰り返すが、絶望出来的につまらない。
そのつまらない理由の1つは、失敗しないことを優先するからだ。
周りと歩調を合わせるということは、周りと同じ言動をとるということだ。同じ言動をするということは、突出してサービスを提供したり、自己判断しないということだ。そして周りと合わせるということは、誰かが創った基準に合わせるよう行動をとるということだ。基準からはずれないように仕事をすることが最重要である。
基準を外れないために必要なことは失敗しないこと、失敗する可能性のある仕事には関与しないこと、トラブルに対処しないことである。つまりチャレンジしないことである。「マニュアル人間」の誕生である。マニュアルとは誰かが創ったルール。それに従うだけの仕事である。実につまらない。
やはり、仕事というのは自分の創意工夫が入り込む余地があるからこそ面白くなる。
マニュアル通りにするのは意外と神経を使う。「マニュアルに逸脱していないだろうか」と不安になる。マニュアルを逸脱しないよう相互監視をする職場である。人の良いところを認めるのではなく、人が悪いことをしないか監視する仕事である。人間関係が良くなるはずのない仕事である。
そのうち、過剰なマニュアル人間になる。現に私より長く今の職場に在籍した同僚は、独断専行を咎められているうちに、極度のマニュアル人間になってしまった。マニュアルにないことはしない、マニュアルから外れる人間は(かつての自分がされたように)咎める、マニュアルを犯さないように注意を払っているので、仕事の速度が極端に遅くなる。生産性は低く創造性は皆無な仕事ぶりである。
だが、組織はそのマニュアル人間になった同僚を以前より高く評価する。マニュアルから逸脱する人間を評価すれば、皆がマニュアルから逸脱し始めるから、マニュアル人間を評価することで、周りの人間もマニュアルを守るようになる。
実は「マニュアル人間」のほうが精神的負担が大きい。ミスをなくし、守り一辺倒のほうが精神的負担が大きい。失敗を恐れずチャレンジするほうが実は精神的負担が少ない。(勿論、無謀な行動を繰り返すことや、新しいことばかりするのもまた精神的負担が大きい。何事にも限度というのがある。)
答えはでた。今の仕事場での自分は、失敗を恐れ、失敗する可能性を避け、そのくせ他人の失敗を咎める、そんなマニュアル人間になりつつある。そんな自分が嫌だし、そんな仕事が嫌なのだ。
では、どうすればいいか?これについてはまだ答えがでていない。加えて給料がそれなりにあるから、転職せずに今の職場に居座っている。
求人票を見ても、どれもチームプレイのものばかりに見える。今の仕事と何が違うのか、求人票を見ても違いがわからない。つまらなそうな仕事ばかりに見える。
ではチャレンジすればいいのか?といわれれば、求人票はブラック企業のにおいがプンプンする、飛び込み営業とか、特殊詐欺?に近いものをチャレンジと評しているものに該当しかねない。違う、そうじゃない。経営者にとって都合のいい、無理難題を押し付けられることを「チャレンジ」と評しているだけだ。無謀な投資、投機話をチャレンジと評しているのと同じだ。
そして今思い立っているのは、副業でなにか自分で始めるか?だ。今のマニュアル仕事はマニュアル通り淡々とこなしておいて、創意工夫のあるものは副業で求める、というのもありではないか?と思っている。
無論、そんな調子のいい副業なぞそうそうあるわけがない。調子のいい仕事、つまり副業で十分な給料があるのは胡散臭さがプンプンするものが多く、見分けがつかない。
そんなに簡単に答えが転がっているはずがない。身も蓋もないが、誰もがそうだから今の仕事に不満があっても転職には二の足を踏む。だが、私は今の仕事がつまらない、そしてそういいながら今の仕事にしがみつく自分こそがつまらないと強く思っている。
次の仕事を見つけて退職していく同僚に対し、怒りよりも、仕事ができないから退職したとか悪くいうよりも、羨望の眼差しを送っている自分に気づいている。在籍者よりも退職者のほうを評価している自分がいる。つまりそれは自分がそうありたいと思っているからこそである。
だからこそ、何かしら動いて、またはマニュアルから逸脱して、答えを探そう。そう思っている。長年苦しんだ怒りだって、試行錯誤しているうちにだいぶコントロールすることができた。今すぐに答えがでなくても、試行錯誤して、模索していけば、ある日思いつく、または出会う機会があるかもしれない。