けーせらーせらー

仕事、メンタル、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

非正規労働者の現状と将来展望

今の私は”非正規労働者”だ。給料は専門職としてそれなりに貰っているが昇進はないし、管理職になることもない。一方、自分より年下の人間が”正社員”というだけで上司、管理職になる。年下だが上司になるので敬語で話すことになる。

今の会社は前職を退職し、無職となって転職活動に専念していた時に新型コロナウイルス感染症が発生、選考途中で採用活動中止になるという異常事態の中、駆け込みで入社した会社。雇用調整助成金等で職についている人間が仕事をせずに休んでいても「休業手当」として給料が貰えて生活保障してもらえる中、無職の転職活動中の人間には何のフォローもなかった。だから、たとえ非正規であろうとも雇ってくれた今の会社には感謝している。

しかし、あくまで駆け込み寺。その後コロナ禍による休業要請がなくなっていき経済活動の再開し始めたため再び正社員に戻れるよう再就職を試みようとした。しかし私の年齢では既に大抵の会社は、正社員の出世レースの結果が予測できる、つまり役員になれるか、なれないか、肩たたきの対象になるかがわかってくる年齢。あえてその年齢をターゲットにした正社員求人はそうそうない。あったとしてもそれは今のような専門職か、歩合給の高い営業職か、問題のありそうな会社の管理職ぐらいである。この問題のありそうな会社の管理職の求人というのは、いつも求人をだしているような会社のこと。つまり、すぐに辞めてしまうのか、本当に雇う気があるのか疑わしいか、求人をだしたままほったらかしかのいづれかであろう。離職率が高い職務は、結果的にはすぐに辞めてしまうので非正規とほとんど同じ、いや履歴書が汚れるのでもっと悪い。そもそも今の年齢から正社員になっても在籍年数により増加する退職金が期待できない。そして今や「同一労働同一賃金」となり非正規に”賞与”を支給している会社もでてきている。私の年齢の場合やあえて正社員という肩書を求めても、その見返りはほとんどないだろう。

それでもなぜ正社員求人を探してしまうのか自問してみる。やはり正社員=一人前の社会人、という意識が消えないからだろう。それに、どうしても正社員と非正規の自分とを比較してしまう。己惚れているのはわかっているが、どうしても自分のほうが優れているとしばしば感じているが、正社員、非正規という現在の”身分制度”を目の当たりにすると、モチベーションは上がらない。男の非正規が、変に対抗意識を燃やさないであろう60歳以上の定年退職した人が中心なのもわかる。正社員として採用するなら少なくとも40歳未満が会社の基本だ。

そんななか、同年代の非正規の男性が正社員の再就職先を見つけたらしく明日退職する。もう自分の周りに男で60歳未満の非正規の人間は、コロナ禍が収束したため着々と再就職先を見つけているようで、今や会社で同年代の男は皆無に近くなった。話の通じる同年代の非正規がいなくなり寂しいし、自分はこのままでいいのか、と落ち込む。

そろそろ今の会社で今の待遇のまま居座るのは潮時。新しいことを、新たな仕事のスタイルを模索する準備に入るべきだろう。

ただ、今のところビジョンが描けていない。まず今在籍している会社ほど給料をもらえるところは今住んでいる県ではそんなにない。あっても歩合給が高いか、管理監督者を理由にかなりの時間外労働を強いるか、もしくは深夜労働があるところぐらいだと思う。そこだと労働時間やストレスからおそらく高確率で健康を害するだろう。そもそも周りを気にして動くのもどうなんだろう、と何度も記事にしているぐらいに思っている。前職を退職して再就職活動中にコロナが発生しなければ…と過去を恨んでも何も物事は解決しないのもわかっている。そして、そもそも私は別に管理職になりたいとも思っていないのを自覚している。人を管理するのは性にあわないのは前職で経験してわかっている。他人に仕事をさせる仕事より、自分の好奇心が惹かれる仕事を自分で勝手にしたい。となると、やはり非正規でも”専門職”というのが性にあっているのだろう。

となると、正社員という身分に今更固執せず、好奇心の惹かれるところに転職するか、今の会社に「指示されたことだけするおじさん」としてとりあえず在籍して、他の好奇心が惹かれることに目を向けることも考えている。また、今の仕事の労働時間をもっと減らしてダブルワークすることも考えている。

とりあえず今年度の労働も明日で終わり。令和6年度は1年かけて好奇心が惹かれるところ、ダブルワークに関する情報を色々仕入れていこうと思っている。

よく働く人は、思い入れが強くなり、対立しがちである。

複数の会社で複数の数十人の従業員がいる部署にいて実感したことだが、組織というのは「よく働く人」「普通の人」「あまり働きがよくない人」の3パターンに分かれるなあ、と改めて思っている。

「働きアリの法則」というのだったと思う。働く人2割、普通の人6割、働かない人2割。どこかの割合の人が辞めても増えてもこの割合はどうも大体同じらしい。

そして思うのだが、どうもこの「働く人2割」には、率先して与えられた職務以上の仕事を自分で考えて熱心に働く人が含まれる。今回は、「働く人」のお話。

この率先して自分で考え熱心に働く人は、経営者が求める「理想の労働者」として位置付けられる傾向があるが、どうも最近デメリットがあるのではないかという印象を持っている。というのも、この「働く人」は仕事に対する思い入れが強すぎる傾向があるのである。その思い入れは周囲をも巻き込む。そして「働く人」はその自己主張が強くなりすぎていく。主張すること自体はいいのだが、だんだん、仕事はこうすべき、組織の在り方としてこうあるべき、自分は評価されるべき、という「べき論」が多くなる。そして他人にもそれを強要し始める。そしてその「べき」が上司に認められないと、反発心から仕事への文句が増え、時に他人に怒りをぶつけ始める。

思い入れは時に組織の規律を乱す。具体的には誰かのやり方を否定して自分のやり方を押し付けるため衝突する。組織のトップのやり方にも口を出す。そして自分の権限を越えて組織の方向性や仕事の割振り、ついにはメンバー構成にも介入を試みる。そして自分の意見が認められないと悪口を周りに言い始め社内の雰囲気が悪くなる。さらには世の中10人集まれば最低でも1人は嫌いな人がいるものので、その嫌いな人を「組織に害を与える者」という正義のもとに排除しようとする。論理的な思考から感情的な偏った思考が強まっていく。

「働く人2割」同士が、それぞれの思い入れ、いや、思い込みにより感情的に対立が激吾kすると組織が分裂崩壊しかける。特定の部署の在籍期間が長くなればなるほど、仕事の経験値や専門性はあがっていくが、その経験や専門性が上司より上回る結果、組織の立場が逆転する。組織の維持にとって悪い方に作用し始める。

その結果、「よく働く」メリットを「規律を乱す」デメリットが上回る。

「働く人2割」の人は自分が悪いことをしているとは思っていないし、実際に成果を出しているので解雇しにくいし、会社としては給料以上に、組織の発展のために働き成果を出す人は残ってもらいたい。だが、上記のデメリットを放置すると組織は雰囲気が悪くなり他の人は退職してしまう。そして人手不足がすすむ。組織としては異動や担当替えという形をとらざるをえない。そうなると、「働く人」は被害者意識が強まり退職するか、「組織に悪影響をもたらす人」に変貌する。

そうなるのを防ぐのが管理職の役割であり、マネジメント能力ともいえる。人事としては「ジョブローテーション」、つまり定期的な異動がある組織にすることが一番なのだと思う。最近流行りのジョブ型と相反するし専門性は磨かれないかもしれないが、長期間同じ職務にいると、取引先との癒着、排他的になり他部署との対立を引き起こし、自分にとってかわられないよう新しく入ってきた他人を排除し始める。長期在職の場合は異動ありの方が、人数がある程度いる会社にとっては「組織の硬直化の弊害防止」に良いと思う。降格と思われないように異動をすることは「働く人」「普通の人」が退職するのを思いとどまらせる効果もある。

さて、自意識過剰かもしれないが、どうも私もこの「働く人2割」に長いこと含まれていた。異動先で長期に在籍する「働く人2割」を客観的に見て気が付いた。他人の振り見てわがふり直せ、とはこのことだろう。その思い入れが上層部や同僚との対立を生み、周りとの軋轢を生んでいる気がする。思い入れというと聞こえがいいが、言い換えれば自分のルールを他人に押し付けているだけ、ともいえる。

そこで、今年の2月から、他人に何も強制せず、期待せず、自分の仕事のみを集中して行うよう意識して仕事をしてみた。その結果、見事「普通の人」の括りに当てはまるような感じがする。他人に期待するのは、仕事のやる気の表れともいえるので、他人に関心を寄せないというのは組織への貢献度も下がるのは間違いない。パワハラの中に含まれる感情的な暴言に分類される発言というのは「働く人」から他人の仕事ぶりへの不満や怒りから来る発言が多い、という話もなんとなく感覚的にわかる気がする。(勿論パワハラはよくない)

一方で「普通の人6割」にいるといい面もあることがわかった。まずストレスがあまり溜まらないし心身の疲労も溜まらない。そして何より、仕事や他人に対する警戒感が減少し、感情的な発言が減っていることを感じる。先入観による偏見や考えの違う他人への怒りや不満も減っている。これはいいことである。そして何より個人の成果という面で言うと、よく働いていた時よりむしろ仕事の質は上がったのではないかと感じる。焦り、不安、完璧主義が少ない方が結果的に質の高い仕事ができる、といったらよいのかもしれない。

勿論「率先して働く人」がいるからこそ、組織が発展し組織が維持できるという面を忘れてはいけない。「率先して働く人」は存在すること自体が悪なのではない。そのデメリットがあまり大きくならないうちに管理職が上手く対応すればいいだけのことである。みんなが個人主義になる、または普通の人と働かない人だけになったら会社は成長せず衰退する。結局組織として重要なのは、管理職のマネジメント能力、ということになる。

尚、組織の為によく働き、自分の成果もあげ、不平不満という主張もしない「聖人」のような人が一番なのだろうが、この「聖人」というのはそうそういない。彼らは無理と抑圧をしているので、どこかで心身のバランスを崩して、仕事に穴をあける。世の中そんなに上手くいかない。

インターネットバンキング選び

今回は金融機関のお話。私は現在金融機関の口座を4つ持っている。実際4つもいらないと思っているが、下記の理由で結果的に所持している。

・ゆうちょ銀行…子供の頃に親に作ってもらった郵便貯金。全国どこにでもある便利さがよいのだが、駐車場が全くないところもあるがおそらく今後も店舗は残るであろう金融機関なので持っていて損はない。

・地元の地方銀行…今の会社の給料振込先。数年前までは道を歩けばATMが沢山あったのだが、続々と支店もATMも閉鎖してしまった。入出金回数が一番多いので正直一番キツイ。

メガバンク…かつて働いていた他の都道府県で作った。全国に店舗があるので転勤しても便利。かつての郵便貯金と違い振込、給料口座指定不可というデメリットがなかった。だが現在住んでいるところでは支店とATMがここ数年で殆どなくなり、もはや通帳に記帳するのがキツイ。紙の通帳をなくす方向らしいが、紙の通帳をやめたらネット銀行と何が違うのかと思い頑なに紙の通帳を保持。メガバンクはひとつ持っておいて損はないと思い解約していない。

・PayPay銀行…昔は”ジャパンネット銀行”という名称でインターネットバンキングの先駆者だった。かつてはのネットでの買い物に大変重宝した。(クレジットカードは当時殆ど使っていなかった。)私はこの”ジャパンネット銀行”が好きだったのだが、PayPay銀行というあまり好みでない名称になってしまった…。今やその名の通り”paypay”のために保持している。他行への振込手数料が原則有料(給料振込先にすれば無料回数が増えるが…)など、他のネットバンキングに後れを取っていると私は思う。

だが最近困ったことが起きた。会社の近く、家から会社までにあった金融機関やATMが続々となくなってしまったのである。前は昼休み中に会社の近くの金融機関で手続きできたのだがATMがなくなってしまったのはかなり痛い。今や店舗が残っているのは駐車場がない駅前が多い。今私は車通勤なので不便。勿論、車で駐車場のあるATMに行けばお金は出金・振込できるのだが、正直言って遠く不便である。まだ現金でしか支払いができない飲食店、小売店も多いので、正直現金がないのは困る。

そこで思い立ったのが、振込手数料無料の回数が多いインターネットバンキングの口座を作ることである。今更ではあるが、今後金融機関ごとのATMはどんどんなくなっていくだろうし、通帳なしの流れは止まらないだろう。またATMが少なくなったせいでATM自体がかなり混んでいる。パソコンやスマホでお金を動かすのに抵抗のあるおっさんだか、時代の流れに乗る機会だととらえた。

ちなみに月1回は必ず振込をするのだが、その指定先口座のある地方銀行は今保持している4つの金融機関ではなく、またこの指定振込先の金融機関もATMが殆どなくなってしまった。他行振込すると毎月の振込手数料がバカにならない。この指定先の口座を開設しようと最初は考えたが、今口座を作ると通帳がないうえにインターネットバンキングで他行振込手数料無料ということを知ったのでインターネットバンキングの方がよいと判断。

今回私はコンビニでのお金の出金手数料なしの出金と、ATMを探さずに済む振込手数料なしのインターネットバンキングを検討することにした。

インターネットバンキングをネットで調べたところ、今人気なのは下記のところらしい。

楽天銀行
住信SBIネット銀行
・SBI新生銀行
auじぶん銀行
あおぞら銀行

今回の口座開設は振込手数料無料が最優先である。高金利、証券会社との連携の優先度は低い。

というわけで、振込手数料無料でかつその中身のわかりやすさを重視し住信SBIネット銀行にした。楽天は最近規定の改悪が多いので印象が良くないし、auじぶん銀行は携帯会社がauでないし、ネーミングがちょっと好きではない。あおぞら銀行は高金利狙いの人用で、振込手数料無料へのハードルが高い。利率もSBI新生銀行の方が高いのでは?住信SBIネット銀行とSBI新生銀行は同じSBIグループで似た点も多く、またSBI新生銀行金利が高いので悩んだが、ステージ判定のわかりにくさと株式との連携をするつもりはないこと、住信SBIネット銀行の方の自動振込、自動入金システムに惹かれたのでこちらを選ぼうと思う。

著名人を神格化したり悪人扱いする報道の在り方について

数日前から、プロ野球選手の大谷選手の通訳の方が違法賭博の疑いで所属球団を解雇された件でテレビやニュースが慌ただしい。

現時点で確定していることはこの「通訳の方をドジャースが解雇」ということだけであり、後は日本の国税庁にあたるアメリカ合衆国の機関が動いていること、大谷選手の代理人である弁護士が通訳の方を窃盗の疑いで告訴したこと、MLBが調査を開始したことは報道段階で、確定した情報などまだわからないことが多い。

歯に衣着せぬ物言いで著名な方もテレビやインターネットでのコメントで、語尾に「可能性」「仮定」の話と断っている。現時点で確かなことは何もわかっていない以上、仮定の話で、可能性の話で話をされているようだ。(ネットニュースを見ると一部「通訳の方は騙された被害者」とテレビで発言したコメンテーターもいるようだが、ネットニュースの切り抜きは正しい情報か不明なため無視)

現時点の情報では確定の情報もでておらず、通訳の方を犯罪者のように取り扱うわけにはいかない。また大谷選手がどのくらい知っていてどのくらい関与しているのかが不明のため、大谷選手を「被害者」「共犯者」などと決めつけるわけにもいかないだろう。

前置きはここまで。

私はこの違法賭博の件で、誰かを悪く扱ったりすることを取り上げたくて記事を書いたわけではない。

私が言いたいのは、もうスポーツ選手や芸能人を神格化したりするのをやめませんか?その逆で悪人扱いすることも辞めませんか?ということだ。

最近のテレビの大谷選手の取り上げ方は目に余る状況であった。朝のテレビなど、どこのチャンネルをつけても「大谷」「大谷」「大谷」…。もはや「大谷選手が移動した」だけでニュース。視聴率がとれるのかもしれないが、まだ練習、シーズン前の調整段階でしかないキャンプでの動きをカメラで追って、「大谷選手の練習道具が壊れました」と報道する始末。結婚したら天気予報や報道を取りやめて報道し、結婚した方が判明したらその方が観戦しているのをカメラで延々と映しまくる。地震が起きたり、政府が何か決定したわけではない。数多くいるプロスポーツ選手の一人を、だ。昭和のアイドルであってもここまで追い回すのは早々ない。

まだワイドショーがするのならわかる。ワイドショーなど下劣で悪趣味で倫理観のかけらもない番組。司会者が取材と称してソウルの禁煙地帯で煙草を吸い、後になって騒がれると適当に謝罪するような番組である。他人には記者会見とか謝罪とかを求めるくせに、自分や身内のことになるとなおざり。まさに人としての醜い部分が結集している番組と言える。かといって戦争や人の死など辛い情報ばかり見ても精神的にキツイから、あくまでワイドショーは暇つぶしであるということは視聴者はわかっているだろう。

問題はワイドショーでなく、報道番組やNHKのニュースでもその姿を追い回していること。スポーツのコーナーではなく通常の扱いである。ある日テレビを見たら、政治や地震の話題よりも先により長く放送していた。

いくらなんでもやりすぎである。スポーツ選手が公式戦でスポーツをしているところをスポーツのコーナーで放送しているわけではない。スポーツ選手の伴侶をテレビで映しだすのが公共放送のやることなのか?報道番組としてすることなのか?と自問できる人間はテレビ局にいないのだろうか?

そして、その追っかけにより大谷選手を「神格化」「聖人」扱いするものであった。大谷選手の野球選手としての実績がスゴイことはその成績が物語っているからこれを否定するつもりは全くない。だが、勝手に彼のその性格や心理やプライベートまでまるで「神」「聖人」のように取り扱うのはどうだろうか?彼のプライベートや性格や心情を誰が知っているというのか?彼は30歳手前の成人男性である。子供ではない。大谷選手ならそんな悪いことをしない、賭博など知らない、となぜ現段階の情報でテレビで発言できるのか?コメンテーターに何がわかるというのだ?

また、通訳の方も大谷選手と同様に「特別な存在」として取り扱っていた。もはや「通訳」の役割を超えて、大谷選手と同様に芸能人扱いしていたのではないか?だから今教科書にも載せてしまい、問題に発展している。教科書では「通訳」という職業を行う人として見ていたわけでないから「彼は通訳だけの存在ではない」と記載した”らしい”ではないか(実物の教科書を見たことがないので”らしい”。)

いくらなんでもやりすぎである。いち野球選手と、いち通訳として最初から取り扱うべきでだったのではないか?ここでこの違法賭博がさらに大きな展開になったら、今度は逆に彼を悪人扱いして、コメンテーターたちは自分たちは騙されたというのか?いい加減、自浄作用はないのか?マスゴミさん。

話は変わるが、悪人扱いしている芸能人や著名人も然りである。本当に彼ら彼女らの何を知って報道しているのか?そしてその扱いをしている理由を視聴者や世間、SNS利用者のせいにするのは、責任転嫁するのは、マスコミはあまりにも無責任すぎないか。視聴者には個人のプライベートを追いかけるような取材能力は持っていない。誰が一番クズなのかが良くわかるだろう。

最後に。大谷選手はプロ野球選手だ。芸能人でもないし、犯罪者でもない。(そもそも芸能人だからプライベートも映していいというわけではない。)テレビは黙ってプロ野球選手としての彼を映しておけばいい。スポーツをテレビでみるのはスポーツ観戦。テレビは試合をそのまま中継しとけ。

評価と満足:仕事分担の変化

今までの記事で何度も書いたことがあるのだが、私は仕事において担当を複数兼務することが常であった。いわゆるマルチタスク。複数のことを同時進行させると脳が疲労する。疲労を溜めないためにはシングルタスクの方がいいし、集中して業務を行えるので効率も精度も生産性も高まる。しかしこれまで、業務分担はえてして”できる人”に集中させる方が組織全体としての成果が高くなるため(言い換えれば、できない人にさせると周りがフォローやカバーしないといけないため組織全体としての生産性が落ちる)、上司は特定の部下の人に業務を集中させてしまいがち。

マルチタスクを行っている時、私には相反する二つの感情があった。
「なぜ自分に仕事が集中するのか?不公平、しんどいし、おかしい」という不満。
「複数の仕事を任せられる自分はその仕事ぶりを評価されているからだ」という充実感。

そんな折、来年度からの業務分担が見直され、私の仕事は兼務無し、よってシングルタスクになる予定であることを聞いた。「働き方改革」に対応するため、一部の労働者へ偏った仕事量を他の労働者に分散させ業務量の平準化を図り、もって過重労働を抑制、また労働者間の仕事量の公平性を確保することにより労働者の不満も解消させたいらしい。

その話を聞いた時、上記の二つの感情とは逆の感情が湧いてきた。
「仕事量がやっと公平化された。給料が減らずに仕事量が減ることはよいことだ。疲労も減る。」という満足。

一方で複数の担当をもつ人も依然としていることから
「仕事を減らされたのは「働き方改革」は建前で、単に自分が評価されていないからではないのか。以前上司に文句を言ったから、自分がリストラ候補になったのではないか。」という不安。

そして、なんだか知らない喪失感があった。なぜだろうと考えていたところ、メンタル疾患になった時の頃をふと思い出したのである。あの時もマルチタスクで仕事量は膨大にあったが、人事考課と成果給たる賞与はうなぎのぼりだった。疲労が抜けず体のあちこちにガタを感じつつも充実感を感じていた。メンタル疾患になりやすい人は「真面目な人が多い」といわれるが、これは「真面目」というよりは、「多くの業務をこなせる自分」に自尊心が満足するためだろう。結果、過重労働により無理がたたり心身のバランスを崩す。

またあの時の失敗を、そして「メンタル疾患の予防」という観点から、仕事量の調整を要望していたのをすっかり忘れていたのである。もともと「働き方改革」というのは過度の仕事量と、長時間労働による心身への悪影響を減らすためのものであることすらも。

また、「多くの業務をこなせる」ことは他人から評価される、という思い込みからくる偽りの充実感から抜け出していないことにも気づいた。上司から見たら単に使い勝手のいい「コマ」でしかないのに。若い人の場合は見返りとして将来の出世が期待されるかもしれないが、私はもう若くないのだから将来の出世という見返りも期待できない。

今は仕事が減ったことを喜ぼう。クビになったらどうしようと思ったが、過去記事でも書いたとおり、仕事量がおかしいといって転職を考えたのだから、クビでも転職でもどちらも”退職”という結果は同じことである。我ながら実に滑稽。よって記録に残しておくことにする。

「なぜ自分”だけ”が苦しむのか…」この考えはなかなか捨て去れないもののようだ。

※以下、約2年前の記事張り付け。業務過多に文句を言っているから笑える。上司からしたら「お前、どうしてもらいたいねん」とツッコミたくなるだろう。

kesera22.hatenablog.com

書くことは、嫌なことを忘れるなどの効果がある。

日記を書くことを推奨する精神科医がいる。書くこと、つまり自分の気持ちを吐き出すことで頭の中が論理的に整理できる。具体的には他人から受けた嫌な言動から来る負の感情やその記憶が、書くことによってそれほど気に病むことでもないんじゃないかと自分を落ち着かせることができる。脳内分泌から運動や食事も同様の効果が期待できるらしいし実際そう感じるが、書くことも意外とアリなのである。

SNSで他人の投稿を見ることが中心の人はメンタル的に良くないらしいが、自分から発信する人はそれほどメンタル的には悪くないらしい。(他人への誹謗中傷を繰り替えす投稿や、承認欲求モンスターに陥って四六時中、いいねがつくかを確認している人を除く)

といってもXとかのSNSだと、短文すぎるし手軽すぎるので一時的なネガティブな感情をつい吐き出してしまいそうになる。一度投稿したら文章を消す以外修正できない。またそのネガティブな言葉を見た人が自分への悪口ではないかと誤解をする可能性もあるし負の感情が伝播したりする。誰かと議論したり、他人と非難の応酬をするのが好きな人ならともかく、SNSで感情的なことを吐き出すとかえって精神的な負担になる場合もある。

ということでブログは書いている最中や後でも修正できるため上記SNSの欠点を薄める効果がある。ブログは精神的にもいい。また長期的に何回も記事を書いていると例えば数年前の記事を見ると文章が読みやすくなっているのに気づく。文章作成能力が飛躍的にあがるのだろう。文章は書いていないと意外と書けなくなる。別に日記でもいいがブログの方が外に出すという意味で、表現や言葉を気を付けたり、辞書を調べたりするので文章作成能力を挙げたいのならば、ブログとかの方が良いと思う。ちなみにここでの文章作成能力というのは、読みやすさ、語彙、てにをはなどの助詞などの日本語の再勉強ともいえる。あとどんどん長い文章を書くのができるようになり、また入力スピードも上がる。後、仕事の日の夜とか忙しい時とか疲れた時に書いたブログの記事を後日読み返すと、休日に書く記事と比較して酷い文章だと自己採点できる。文章を書くには自分の疲労度やも左右されるというのがよくわかる。

ただ個人的には誤字脱字が多いのは治らない。プレビューとかで読み返せば直せるのだが、どうも紙でチェックしていた仕事の癖がとれない。(言い訳)

おまけ

はてなブログのタイトルをAIで作ってもらったりして試してみたが、どうも自分の意図するものとは違ったタイトルを提案してくるので、最近はほとんど採用していない。ちなみにAIのタイトルでも閲覧数も延びない。よって今はAIだとどんなタイトルをつけるのかという興味本位で見る程度になった。無料で簡単にできるAIはこんなものかもしれないし、単に自分が理解していないだけかもしれない。生成AIは今後発展するであろうが、ブログについては現時点であまり調べる気はない。

ファッション:他人を見下す道具にしている人達へ

服装に関するYouTubeを見たりする時がある。といっても、このアイテムがカッコいい、機能的、こういうコーディネートはどうか、など前向きな提案や紹介のようなものを見ている。宣伝かもしれないが、自分が知らない、または、多数の情報の中から厳選されかつどういいのか解説が分かりやすい紹介というのは見ていて気持ちいいものだ。それにいいと思う服を買って着ること自体テンションが上がる。

だが、「このユーチューバーは一線を越えてきたな」と思う動画は見ないようにしている。服を買う行為自体が白けてしまい、くだらない行為に思えてくるからだ。

1つは「ダサい」とかいう主観で、他人を否定する主張の方が中心になってきた場合。服は伝統儀式の服装、服を売ることを商売にしている人以外は、結局のところは自己満足なのだから。「いるよね~こんなダサいヤツ(笑)」「気持ち悪~」とか複数の人間で嘲笑したり嫌悪感丸出しのものを投稿し始めた時は要注意である。

「この服装はモテない」とか言い出したら黄信号。それは何故か?誰でもモテたほうがいいに決まっているからである。だからその言葉は「錦の御旗」というか、その言葉を使うことで、人の服装を見下せる免罪符にできるからである。

次に、男に対してメイク必須とか、特定の美容院理髪店を切り捨てるとか、健康を害する食事制限とか、具体的な行動の指示とか言い出したら赤信号。もうファッション紹介でもなんでもなく、ただの自己満足を押し付けているマインドコントロールである。

2つめはマナー。マナーというのは必要である。だがこれも「失礼クリエイター」というネットスラングがあるように、行き過ぎたものは「マナー」という言葉をもって相手を貶める道具に成り下がる。冠婚葬祭だって公的と持ち上げてマナーを掲げるが、葬式は仏教なのに、結婚の時にはキリスト教などになる、最近できたよくわからないイベントでしかない。何のために来訪したのかという趣旨から外れずに悪目立ちしすぎなければよい。だから冠婚葬祭は他と一緒で無難な恰好が良い。ただなんでもかんでも、マナーを強調されても。ちなみに面接でもそう。リクルートスーツで白いワイシャツで無難なネクタイでなくても受かる人間は受かる。あんなファッション、せいぜい新卒の研修時ぐらいまでしか着ないので非常にもったいない。

3つめは流行。「トレンド」とか「このアイテムはマストバイ」とか日本語と英語を混ぜている時点でもう胡散臭い。確かに数年前と同じ格好をしているのにダサく見える服装があるのは事実。だが流行というのは所詮移り変わるものである。流行ばっかりおいかけていたら自分の所得の服装に占める割合が増える一方である。勿論、本人が気に入った服ならば買えばいい。

流行というのは所詮、ファッション業界が服を毎年売るために作り出しているもの。今年流行にしようとしたファッションがさっそうと現れ時代を風靡した「一発芸」のお笑いタレントの服装と同じで、「芸人の〇〇のマネ?」といわれるから流行ファッションにならなかったという話は、本当か嘘かは知らないがありえない話ではない。

結局、流行を追いかける人というのは、ファッション業界が毎年作り出したものに乗っかる人がカモ、他人との比較でマウントを取りたがる人がカモなのである。ファッションを人にマウントをとるための道具にしてしまう人は、ファッションだけでなく他の行動も他人との優位性があるかどうかが判断基準になりかねない。やれ、港区だの、タワーマンションだの、子どもの学校だの、会社の地位だの、何かにつけてマウントを取っているだけ。そんな道具に時間と金を吸い取られては意味がない。

そもそも考えてほしい。結婚して子育て中の男の休日の普段着なんて安物の流行から外れた動きやすい服を着ている人が結構いるが、彼らに向かって彼らはモテないというのだろうか?もう相手がいる人にはいわないだろう?お金を育児、家庭優先に使っている人に流行遅れとか、童貞(だったらどうやって子供ができたのだ?)とかいわないだろう?所詮、流行という言葉で他人にマウントを取りたいだけだということがよくわかる。”流”れて”行”くから、流行である。

そもそもおしゃれな人というのは自分基準な人は、他人から見ればビックリで、他人の物差しではわからない人もいる。それを著名な海外で活躍するデザイナーが使用したからオシャレとか言いい弾めるのだから実に滑稽。自分の基準がないのに他人には自分の基準を押し付ける。芸能人や上記に挙げたユーチューバーだって、流行の最先端とかいいいつつ、自分(自社)のブランドを宣伝して稼いでいるだけに過ぎない。実にくだらない。

ビジネスマンとしての服を追求すると、体を動かす業務やお客に会わない業務には適していないファッションであることに気づく。今の寒さ暑さへの対策の方が重要。それをビジネスマナー的に問題といってクーラー、暖房をガンガンにかけている会社は、SDGsに関してあなたの会社はどうなっているの?とツッコミたい。ビジネスパーソンのジャケットはワークアーティクルがモアベターだとアイシンク。

ただやっぱり身だしなみは最低限は必要なのは確かである。寝ぐせ、服でしっぽがでている、服がしわしわ、よれよれ、着崩れの人に仕事を頼んで大丈夫?と不安に思われても当然だと思う。

まとまりのない文章になってしまった。

ザックリいうと、ファッションというのは他人に危害を与える臭い、汚いなどの不快感を避ければ、本人の予算内で本人の好みで買えばいい、というお話である。

ちなみに男の場合で人から好意を向けてほしいなら、服装よりまずはメタボのお腹と、猫背をはじめとする姿勢を直した方が服よりも最優先だと思う。見るべきチャンネルが違う。

女の場合は人と被ってもダメとかもう面倒くさいし、化粧品もしらないし、そもそも女でないのでノータッチ。