けーせらーせらー

仕事、メンタル、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

「自己啓発本」を読む意味はあるか?

本屋に行く記事を何度か書いた。そのなかで「自己啓発」というジャンルに遭遇する。そもそも「自己啓発本」とは何ぞや?と思ったのが今回の記事。また「自己啓発本を読んでも意味がない」という意見についての考察の記事。

まずはそれぞれの定義を確認。

自己啓発…本人の意思で、自分自身の能力向上や精神的な成長を目指すこと。またはそのための訓練。

意味がない…期待した効果が得られないこと。あってもなくても変わらないこと。

では本屋で売っている「自己啓発本」としてジャンル分けされているのは何かというと、恐らくではあるがビジネス書のように専門的なもの、職種に直結しないものを便宜上わけているのであろう。

そして何回か記事にしていたことではあるが、ちょっと前の本屋の「自己啓発本」は、ひろ〇き、堀〇、西〇、Da〇go氏を筆頭とする著名人の著作と、彼らに影響されたような行間が広く文字がスカスカで中身もない1時間以内で読めるような本があふれかえっていた。しかもこの著者及びお仲間の経営者からは「自己啓発本なんて読む必要はない」といわれているのにも関わらず。彼らの本で「能力向上」や「精神的な成長」は見込めないと私は思っているので、彼らの本を「自己啓発本」と扱うなら「自己啓発」になっていない、つまり定義に合わない本を読んでも意味がない。

彼らの本であふれかえっているような「自己啓発本」なんて読む価値はないと私はつい最近まで思っていた。

彼ら自身が自認しているように彼らの本を読むのは暇つぶしだと私も思っている。昔でいうと、電車で移動している間で読む本や待ち時間に店に置いてある本を読むのと同じ。本来の予定の時間が来たら、駅のホームのゴミ箱にポイか、古本屋に直行である。だから彼らの本が「自己啓発本」というカテゴリーではなく、「暇つぶし用」というカテゴリーにあれば役には立っている。暇つぶし用、時間つぶし用は多くの人に需要があるので売れるだろうし、印税も多いから著者にとっても悪い話ではない。

では彼ら以外の本以外は「意味がない」かどうか。

これも「意味がない」の定義による。上のように「期待される効果」があるかどうか、またはあってもなくても変わらない=読んでも読まなくても変わらないかどうかで判断する。

まず神の啓示のような、自分が生まれ変わったようなものを求めているのならば、ほとんどの人にとっては「意味がない」。そもそもそのような本は「自己啓発本」ではなくて「宗教」か「哲学」のジャンルになるだろう。

期待される効果を、人生に役立つかどうかで判断する、としよう。例えば本に関係なくスポーツ選手で結果的にプロになれずお金を稼げなければ、それまでの競技人生は「意味がない」ことになる。つまり「お金を稼ぐこと」を「期待した効果」とするならば「自己啓発本」を読んでもお金は購入代金分減るだけ。専門書で自分の職業のレベルアップを図る方がよい。よって自己啓発本では「意味がない」だろう。

では、「実際に動く」方が大事で自己啓発本は読んでも意味がない、という場合はどうか?自分の経験をもとに世の正しさ、世のすべてを論じる痛い人間がいるので、むしろ自分の考えだけで動いているだけの人間の言葉を聞いても「意味がない」だろう。だから本でもこういう自己の考えが正しい、自分の意見に世の中は従うべきと思っているような人間が著者の場合は読んでも意味がない。

また、他人の言葉に従っても〇〇しても意味がない、と思っている人には本を読んでも、何を読んでも、誰がと話しても時間の無駄なので「自己啓発本」を読んでも意味がない。

読んでも忘れてしまうから「意味がない」のならば、人と会っても数年会わなければ忘れてしまうし、話した内容なんて殆ど明日には忘れてしまう。忘れるから意味がないのならば、人と会って話すことも意味がない。

自己啓発本を読むことで、実社会の問題を解決できないから意味がないというのならば意味がない。そもそも本を読んだからといってひとつひとつの問題を解決しない。大学試験に受かったからといって問題は解決しない。本を神の啓示かなにかと勘違いしているならともかく、思考が浅い。

つまり「自己啓発本」を読むことで、なんらかの対価を期待するのならば意味がない。

自己啓発本は当たり前のことをただ著者が言葉を言い換えただけの本、著者の妄想に近いレベルの本がある。時間の無駄をしたと思うときもある。でもそれは人間と同じ。この人と一緒にいる時間の無駄だな、というのと同じである。そういう本を読んでも「意味がない」

前置きが長くなったが、そもそも実社会にすぐに活かせることを期待するから「意味がなくなる」

私は「自己啓発本」というのは自分の固定観念や偏見、知識不足、情報不足を他人の言葉で気づかされるために読むものであり、また自分が持っていない他人の考え方、自分が知らない情報、研究結果を知るために読むものであり、現実社会で偏った思考をもつ自分を修正できる効果を期待して読むものである。そして目から鱗が落ちる感覚を楽しむ。本屋でどんなことが書いてあるのだろうと興味をそそるから読む。目から鱗が落ちたり、興味が満たされることが「期待される効果」。よってそれが満たされた場合は「意味がある。」

また、私はメンタル本をよく読むが、読んだところですぐにメンタルの不調は快復はしない。本は薬でも手術でもないので、本に回復効果まで期待していない。だが、メンタル本を読むことで、急な偏りや焦りや不安で心が傾いた時に自分を立て直せる。その効果を期待しているので、その自分の期待にあう本に出会えたらならば「意味がある。」

その場だけのエナジードリンク、安定剤で大いに結構。本を読んだことをそのまま覚えているわけではない。それで結構。そういえばああいう本があったなと、後で読み返すことで結構。なんとなく頭に残っていて自然になっていれば「効果があったので意味がある」

本を読んでも行動に繋がらないと「意味がない」という意見については、なぜわざわざ本を読んでから行動するのかと思う。読書の時間は読書の時間であって、行動する時間とは別のものだろう?「自己啓発書」は何も何かを行動するための前準備で本を読むのではない。本を読んだなら、その本の通りに行動しなければならない義務もない。行動するための動機づけのような本は、上記に書いた人の著作ではよく書いてあるが、自分の行動の動機付けになることが「意味がある」という定義ではない。

また、本を読まない人間の知識などなんのあてにもならない。自己の経験をもとにした自分だけに通用することを聞いても意味がない。本を読まなくても金銭的に社会的に成功する人はするが、その人の経験など聞いても体系的でなく再現性がないので、私にとっては彼らの話を聞いても聞かなくても私は変わらないので「意味がない」。

本を読むのは、他人のためではない。

結局言いたいこと。赤の他人に意味があると褒めてもらいたいために本を読むのかい?赤の他人に意味がないといわれたら本を読まないのかい?

本なんてなくても生きていける。そもそも字が読めない人間は今でも地球上に沢山いるが、その人達の人生が意味がないわけではないのと同じ。そして「意味がない」というのは、字が読めなくても生きていける=意味がない、と定義しているの同じ。なんとでも言える。ディベートの名手ならどちらかの立場で話してください、と言われたらどちらの立場でも話せるだろう。それぐらいのこと。

人生に意味なんてない。誰かの役に立たなければいけないわけではない。金を稼ぐこと、社会的に成功すること、他人の人生を左右できるほどの権力をもつことが意味があるわけではない。年収低い奴は社会のお荷物、といえるぐらい年収があることが意味があるのか?そういう人間を生み出すためことが意味があるなら意味がなくて結構なのでは?。意味がないからこそ、自分がしたいと思うことをする、という思考にたどり着いてもいいのでは?

結論

自己啓発本」を読むのに「意味があるか」どうか考える必要はない。自分が読みたければ読めばいい。上記に書いた人間の著作は私が読んでも「金と時間の無駄=意味がない」と思っているから読まないだけで、他の人が読むことを「意味がない」と止める気はない。読みたいという自分の気持ちに従えばいい。読みたいという欲求を満たすことは「期待される効果」といえ、「意味がある」行為である。