けーせらーせらー

仕事、メンタル、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

海へ

久しぶりに海に行った。苦しい時私は海に行く。

今日は天気も良く、海では釣り客や、歓談している人、遊んでいる人などそこそこの人手があった。

数年前の正月に行ったときはその他人の目が気になり、自分がいかに他人の目を気にしていること、他人に悪く言われることへの恐怖を持っていることを認識した。

果たして今日の私の気持ちはどうなるかと思って、海を眺めていた。

人がそこそこいるため、まわりの他人の声がよく聞こえる。最初は海の音が聴きたいので、人の声が聞こえない場所がないか探したが、今日は無理そうなのであきらめた。案の定、波の音と人間の声が重なる。しかし、その声に不快感も恐怖感もない。人間の声がノイズになるかと思ったがそうにはならなかった。ただ人間の声という音が聞こえるだけだ。そう、他人の声など音の一つにすぎないのだ。それを自分の感情が恐怖感などを生み出しているに過ぎないのだ。他人も私というヒトがそこにいる、という事実でしかないだろう。俯瞰的に見ると、ヒトがいて、音をだしている、ただそれだけなのだ。

結局、他人というのは、自分に危害を加えようとする人間は別として、それ以外はただの動くモノでしかないのだ。その今の認識を客観的に鑑み、過去の記事に書いた恐怖心とを比較して、ここ2年ぐらいの間に自分の精神も少しは変わったことに気づく。凶器を持った人間が目の前にいる場合はともかく、自分の感情で不安を生み出さない限り、世界なんてただモノが動き音をだしている、それぐらいなのだということに気づく。

海を見に行く動機などいらない。景観をインスタにあげる必要も、喜び、癒される、ほっこりするという感情を動かす体験をして他人に報告しないといけない必要性などない。ただ、私の場合、過去と未来を過剰にフォーカスし不安、不満、怒り、期待が生み出されていた時に海を見てただ”今”に意識が集中することができる。人によっては座禅を組んだり、写経をしたり、サウナに入ったり、旅行にいったり、運動をしたり、色々な方法があるだろうが、私にとっては海に行くことが一番短時間の移動時間でたどり着ける”今”に集中でいる場所だ。

そして感情を抑えて冷静に過去を振り変えることもできる。自分を守るための行動に後悔などあるわけがないこと。もう何度目かという他人との対立も自分の性分だろうと思う。被害者が、将来の協力関係や、周りへの影響を気にして、加害者に謝罪してお願いしたりする必要などない。

その対立した他人が異動する、姿を消す、という暴力的な意味合いや策謀的な考えが昨日まであったが、うっすらと消えていく感じがする。自分が守れればそれでいいわけでそれ以上の何かを他人に期待し、また他人への憎悪を膨らます必要もない。それは自分が生み出したと、自分のちっぽけなプライドが傷つけられたことへの仕返しは必要ない。相手が怒られたことに腹を立て反撃してくるならばその時戦えばいい。メンタル疾患で失った人生だ。今更生き残る必要もない。

退職や異動をチラつかせて上司に迫る必要もない。自分の正しさを他人に認めてもらう必要もない。上司には上司の守るものがある。相手も自分を守る。私も私を守る。平和のためにはガマンしないといけない必要はない。国を守る仕事でもある政治家と警察と軍隊の仕事と自分の仕事をごっちゃまぜにしてはいけない。

ただ、改めてメンタル疾患から復帰した後の転職先で何度も他人と対立してきたなあとも思う。これは多分、メンタル疾患の時に有名企業の正社員の身分を失いたくないばかりに過剰に我慢した反動なのだろう。ただ、家族や友人はアイツはしょっちゅう対立しているなとあきれているだろう。だが、もう私は自分の心は健康は自分で守ると決めたのだ。その行動で転職理由が面接で言えなかろうと、転職活動が上手くいかなかろうと、もうそれでいいだろうと思う。そこまで他人との協調も称賛も今の自分は求めていない。

わたしには大所帯の組織にいることは不向きなのだ。コミュ障ではないが、10人集まれば1人はいるであろう嫌いな人間1人と上手くやっていけない。どうしても対立する。

ちなみに上司には昨日、怒ったことを報告した。上司には面倒をかけてしまったことを謝罪するが、それは自分を守る行動であること、そして上司には労働環境の改善を要求した。ここで感情的に上司に迫れば、問題の解決の着地点が私の怒りを収めることになってしまう。問題はそこではなく労働環境である。上司というか使用者は労働者の安全配慮義務がある。アンガーだけに注目されないように、自分が訴えたい、守りたいものが隠れてしまわないにするためのアンガーマネジメントは必要だ。上司からはGW前に終わらないといけない仕事があるのでGW前まで待ってほしいとの話があった。相手にも事情がある。これからどう行動しようかあれこれ考えるのは、その結果を待ってからでも遅くない。その先はその時考えればいい。

そして前の記事にも書いたが「我慢して生きるほど人生は長くない」という本を改めてお思い出した。私は50歳に迫る年齢になった。この先の寿命は10年もない人もいれば、30年以上ある人もいるだろう。先日交通事故を目撃した。明日は我が身。もしかしたら今日、明日が寿命かもしれない。

出世もない職場に居続けるために我慢する年齢ではないな、とも思う。ではどう生きるか?我慢しない生き方というのもありだろう。メンタル疾患で自分の人生は”普通”ではなくなり苦労したが、その結果他人や世間の顔色をうかがわない自由な生き方を身につけられたな、と思えて終えるのが自分の人生の終着点の目標かもな、と思った。

その記憶をこのブログに残す。さて4月末、1年後どうなるかはわからない。それも人生。ただ周りとの関係悪化を避けるために自分が傷ついてまで我慢することは、これにておしまいにしたいなあと思いつつ、海を去った。