けーせらーせらー

仕事、メンタル、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

就職希望先の基準:他人に自慢できる会社になっていないか

私が入社を希望する会社は、自尊心を満たす、他人に一目置かれることに重きをおきすぎではないか。

とある会社の面接を受けた後に気づいたことである。

前の記事にも書いたことだが、今更、自分がその応募先企業内で働く「イメージ」をもっていなかったことに気づいた。

そして自分が「イメージ」していたのは、その会社に入社したことで周りからスゴイと褒められる自分、それに満足し自尊心を満たされる自分、その会社に「在籍している状態」に鼻高々な自分、大きな会社で、正社員で定年まで居られそうで、安心して枕を高くして寝られる自分をイメージしていた。18歳~22歳の働いた経験のない若者ならいざ知らず中年のおっさんがいまだに、だ。

契約社員の場合、契約の期限近くになると、契約が更新されるかどうか、されなかったときの就職活動のことが頭から離れない状態になる。そこから抜け出したかった。

所詮なりたい自分などそんなものだった。その会社でやりたいことがあるから、とかは二の次。社会的地位もあり、雇用の安定もあり、安心して生活ができる自分を求めているだけであり、現状から逃げたいだけの自分。そんな人間だとわかって雇う会社があるだろうか。

私が大学卒業後入った会社は知名度のある大企業であり、収入も多かった。あのままいたら今頃は部長職ぐらいだろうか。それは会社のホームページで1歳下の後輩が偉そうに〇〇部長として登場しているのをみたため全く根拠のない夢物語ではない。その後輩に私は仕事を教えた。後輩より遥かに仕事ができた。あのままいたら、自分はあの立場以上になっていた可能性はある。何十人もいる若い部下に囲まれて偉そうにふんぞり返って椅子に座っていたはず、と悔しさでいっぱいだ。

そして今の自分を惨めに思う。専門職として生活に困らない程度には金は稼いでいるが、知名度と安定性は低い。部下も昇進もない。更新時期になるとそわそわする、なんだこれ、なんだ俺の人生、と情けなくなる。

そして面接をして気づく。面接官に気づかれる。「あなた、私たちの会社に入って何かしたいのじゃなくて、ただ知名度と安定性のある大会社でそれなりの地位にいたいだけですよね?」と。見抜かれていた。

「誰だって正社員の方が安定していいに決まっているじゃないか。それが志望動機で何が悪いのか」と悶々とした後、ふと1社目の会社で正社員の数少ない総合職だった頃を思い出すのだ。1社目は名の知れた大企業で雇用も安定し賃金も高い。社会的信用も高いので取引先やお客からの信用も最初から高い。周りにもチヤホヤされた。収入もかなりあった。合コンではモテた。

だが自分の心はいつも不安と恐怖で一杯だった。自分の能力を超え、勝つ複数の業務をしていたので常に長時間残業だったし、休みも仕事でなくなるし、プレッシャーも半端ないし、数字に追われ頭は常に仕事で一杯で、心休まる時間が殆どなかった。成果がだせなければ、左遷、役職変更、年収の大幅ダウン、最悪肩たたきもありえることを知っていた。外部の人はそんなことは知らないだろうが。当然だが、高収入を維持するにはそれに見合う成果をだし続けなければいけない。当時は年功序列の賃金から成果給の比重があがってきた時期。左遷された人の周りの見下し方は実際に先輩を見て確認済みだ。成果をださなければ自分も見下されると怯えていた。恐怖で仕事をしていた。私の心中を知らない他人の評価が年々あがっていくのと反比例して、私の心はどんどん疲弊していった。そして心身ともに無理がたたってか、メンタル疾患になってしまい、結果、会社を追われた。その時の自分は落ち込みもしたが、ホッとしていた。やっとあの労働環境から逃れられる、と。

知名度に惹かれ、他人に評価してもらいたいために、同じ失敗をまた繰り返すつもりだったのか、と我に返った。

自分が真っ先にすべきなのは他人の評価の再獲得ではなく、この考え方の修正だ。「他人に敬われたい」「他人から成功者と思われたい」「他人から否定されたくない」という意識からの脱却だ。「他人がどう思うか」という評価基準からの脱却がまず先なのだ、と気づいた。またメンタル疾患になった以上、再発しないためには健康を維持できる労働環境が最重要だ。その視点も抜けていた。なんのためにこのブログで書いてきたのか、と自問した。

ただ、それに改めて気づかされたのはこの面接での収穫だ。行動することは大事だが、その先を見据えていたのは、「他人に評価してもらうこと」にまたもや置き換えてしまっていた。

そんなことに気づいて私が仕事でまず取り掛かったのは、長時間処理できずにいたクレーマーの対処だった。転職できれば私がする必要はないと思っていた問題の対処だ。この案件は他の人が担当の時はOKだったと相手が主張し(その担当の名前は出さず、またNGだった時の話もあるのだがそちらは話に出さない)、こうすればOKがでるのかと、揺さぶりをかけてきて交渉を終わらせず、長期間ネチネチと引き延ばせば、疲弊して担当者が譲歩するケースがあったことを知っていてその行為を行う卑怯なヤツとの決着だ。私は他人に否定されることを恐れる。長時間交渉がまとめられないことで上司からの評価が下がることを恐れる。失敗を恐れる。失敗したことで他人から否定され、見下されることを恐れる。だからこういうタイプのネゴシエーションに負けることが多々あった。

だからこそ、今回はきちんと理由を説明し、相手の話を聞いたうえで、その日で交渉を打ち切った。相手から非難轟轟だったが打ち切った。それで人事考課が低評価になろうとも、他部署や上司に相手が訴えようともかまわない。ここで引き下がったらいつまでもこちらが折れるまで決着がつかない。勿論私が誤っている可能性も十分ありうるので、その場合の謝罪と責任を取ることも頭によぎったうえでの”決断”である。そういう腹の括り方が大事だ。

「相手が間違っていることに確信を持て」。相手から非を責められていた時に自分に抜けていた感覚だ。相手の大声で、同僚がコソコソ話していたが(同僚のこういうコソコソ話は本当によくない。援護射撃でなく、後ろから鉄砲を撃つ行為で、穏便に早期にすませなければと相手の要求を呑んでしまう人間もいるからだ)終了後、気分が良かった。

ああ、これが私が求めていた感覚だ。自分が正義、相手が悪、という話ではない。いつもこういう対応をするという意味ではない。相手を論破することではない。自分の心の中の問題。他人から否定されているなかで、自分が決断できたことへの満足だ。この精神を保てれば、きっとどんな仕事でも1社目と同じ原因でメンタル疾患にはならないだろうと思えたことへの満足だ。(勿論、メンタル疾患は仕事だけが原因ではなく複数の原因で起こることは知っている。)

「他人の評価を気にしない」「他人の評価で自分のすることを決めない」。このブログで何度も書いている。なかなか実行できないからこそ何度も書いているわけだが、改めて、これが自分が今一番自分に必要なことだ、と気づいた。

とりあえず今の仕事でこの精神が保てるかどうかを今年の目標としよう。