けーせらーせらー

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「発信力」という言葉にご用心

「発信力」という言葉がある。

経済産業省は「自分の意見をわかりやすく伝える力」と定義されているようである。

さて、マスコミにおいて「発信力」という言葉は、政治家やインフルエンサーに対して使われれているようだ。

その定義は、経済産業省の定義とは一致しない。マスコミでは「注目を集める発言をする能力」そして「視聴者数、閲覧数」を稼ぐ能力がある人を指していると思われる場合が多いと私は思う。

閲覧数を稼ぐ能力自体を否定する者ではない。問題は中身だ。

経済産業省のいう「自分の意見をわかりやすく伝える」ことではなく、過激な言葉、極端な言葉、人を蔑む言葉、不安にさせる言葉を使う能力に長けていると置き換えもよい人間もいる。

とあるユーチューバーが投稿した動画でこんな質問に答えていたのを見たことがある。「なぜ動画ではそんなに怒っているのですか?普段会うあなたはそんなに怒らないないのに?」という質問に対して「怒った動画を投稿したら閲覧数が増えたので、そのスタイルを辞められなくなった」と回答している。これは、閲覧数は、発言の中身が役にたつかどうかではなく、発言の仕方によって左右されることを示していると思う。

そんな風に閲覧数を意識した発言は、果たして正しいのだろうか?きちんとした情報を理解したうえで意見を言っているだろうか?耳目を集めるために発信速度重視で、正しい情報かどうかは二の次なものはではないだろうか?

そして自分の専門のことだけではネタがいつかはきれる。そうなると、専門外のことも口出しする場合がある。芸能人の”芸”に関する者でない不倫とかなどの叩きやすいニュースとか、政治家の失言とか不正とか叩きやすいネタにとびつていないだろうか?その意見は価値があるだろうか?法的に正しいのだろうか?

政治家の場合は、テレビに良く出ている人によく使われている。テレビで発言する能力自体を否定しているのではない。そのなかには、政敵や自分の意見に反対する人を貶めることに長けている人だけの人が混じってないだろうか?

誰かを陥れることで耳目を集める行為はいずれ自滅する。人間だれしもミスをする。そしてそう言う人間がミスした時に、やってくるのは、助けではなく、かつて自分が陥れた人間からの逆襲と、かつて自分がやってきたような陥れようとする別の人間である。

マスコミは別にその人が正しいかどうかでその人物を利用しているわけではない。閲覧数、視聴者数が伸びるから引用しているだけである。逆にその人が落ち目になる場合は、その人を叩くことでまた閲覧数、視聴者数を稼げる。もちあげる、おとすと2度おいしい思いができるからである。

何がいいたいかというと、「発信力」がある人の意見と言うのは、あくまでひとつの「意見」として聞いた方がいいということだ。その地位を築けた「話の分かりやすさ」というのは学ぶ価値があるかもしれないが、肝心の中身については根拠が弱く、聞いたところで悪意をばらまくだけでなんの生産性もない、という人が多いことに注意しないといけない。

同じような言葉で「突破力」という言葉がある。政治家や経営者に対して使われる、物事を進める力だ。かつては「剛腕」とも言われた。これも検討ばかりして何もしない人や評論家より価値があるだろうが、多くの人のコンセンサスを得ないといけないことまで、無視して突破している場合もある。「抵抗勢力」という”敵”を作り、その”敵”を倒す正義の味方のような演出力をもっている場合もある。だれかを攻撃することに長けているだけの場合もある。そこにマスコミやSNSで拡散されることで、一部の人間の喝采を浴びて、その「役割」はさらにエスカレートする。

エスカレートした「突破力」で行ったことは、後になって振り返ってみると、あれは何だったんだ、と思うケースが多いと思う。下手をすれば後悔する。耳目を集め”続ける”ということはどこかで無理無茶が生じるものである。

議会が何のためにあるか?その目的のひとつに国や地方自治体のトップの暴走を止める役割があると思う。議会の議員を執拗に叩いている首長を見て拍手喝采をするのでなく、議論の中身を聞く必要がある。不正や違法行為を除けば、トップが正義、議会が悪(その逆も同様)という構図になっている時は危ういと思った方がいい。

〇〇力がある、とマスコミやSNSで持ちあげる人は、その〇〇力の中身まで見たほうがいい。「演出力」があるだけで、学ぶ価値、リーダーとして持ちあげる必要はないかもしれないから。

生まれ持ったスターはいない。周りか、その人物の演出の結果か、その時の運でその扱いになっているだけだと斜に構えてみたほうが冷静に物事を判断できるかもしれない。

と、今日の読売新聞の記事を読んで思った次第である。