巧遅は拙速に如かず

仕事、自己啓発、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

転機 - 令和6年の面接と落選から見えてくること

過去の記事を見れば推測できるかもしれないが、令和6年2月に正社員の面接を受けた。色々な占いをたまたま見たところ、私は令和6年2月にはここ数年で最高の運勢の月というのをたくさん見た。曰く人生の転機が起きる、と。

そんな時、かなり競争率の高さそうな社会的な知名度と高い信用力をもち、給料も高く、福利厚生もよい超人気企業が中途採用の正社員求人をだしているという求人サイトからお知らせメールが来たので応募してみた。まあ年齢で落ちるだろうと思っていたが、書類選考に通過し、面接を受けることになった。

面接結果は不合格であった。かなりの好条件だったから落選の確率はかなり高いと思いつつもやっぱり落選は辛い。書類選考で通過している以上、年齢、経歴やスキルを落選したいい訳にできない。面接で病気のことを聞かれなかったので病気を言い訳にもできない。

となると、面接で人間性を否定されたようで辛い。面接は即興芝居の場であるとわかっていても、自分をその短時間で売り込むプレゼンテーションの場だとしても。

やはり面接は好きになれない。世の中には面接室に入った瞬間に採用が決定するような、もう仕事ができる人間であることがわかるような人がいるのは知っている。だから応募者多数の場合は落ちてもおかしくないことは頭ではわかっている。ただ自分はこれまでの社会人人生の中で成果を出せなかったというのは学校卒業後の20代前半は別として、ほとんどない。その結果から、実際働けば給料に見合う十分な成果は上げられるという自負もあるので、面接という見た目や質問への回答次第で判断される、というのはやはり好きになれない。身だしなみ、面接でのマナー習得などは10年前から問題ないと思う。話が下手というわけでもない。やれることはやった。それだけに「一緒に働きたい」と思われなかったということはやはり残念だ。

ただ今回の面接には明確に自分のミス、反省点があった。それは、その会社で何をしたいのかイメージできなかったこと、事前に十分にしてこなかったこと。今回は特に面接の場で、面接官から、どんな仕事をするのか求人票以上のことを具体的に説明されたため、それを聞いた自分はその瞬間、”その仕事は自分に適していない”というイメージが湧いてきてしまった。勿論、面接の場で自分はその仕事には適していないとは言ったら面接はそこで終了なので、取り繕った回答はしたが、上手く説明できたとは到底いえない。”その仕事は適している”ということをイメージできて具体的に説明できた人が通過して当然でもある。だから落ちたこと自体は残念でもあったが、落ちても当然だとも思う。もし受かったとしたら、自分がその仕事が”できない”とは思わないが、”適していない”イメージがつきまとって、その転職をしてよかったか就職日まで不安になっていたであろう。

そして気づいたのだ。「本当にあなたはこの仕事がしたいのですか?」という質問により、私は特定のこういう仕事がしたいというのがないことを。

私はこれまでの経験から大抵の仕事はできるというイメージはあるが、面接の場で事前に具体的に「この仕事はあなたがしたい仕事か」と問われると上手く答えられる自信はない。できると思うとしか言えないし、やってみたらできるし苦でもない、と言えるぐらいだ。その答えは、熱意とその根拠を話せる人と比較すれば落とす具体的な理由になりうる。

そして面接で改めて私は仕事の内容如何より「人に評価されたい」という気持ちで仕事を探していることに気づく。周りの人間から「あの会社であの地位にいるんだ」と羨ましがられたいから受けている。だから「〇〇という仕事をしたいか」と問われると答えに窮するのだ。

それに今回は、動機がかなり不純だった。50代で採用されるのはかなり難しいだろうから今回で中途採用の面接は終わりにしたい、老い先短い親*1に心配させたままにさせたくない、それが今回の応募の本音である。志望動機が採用先から見れば身勝手な理由で採用する動機にならない。現職のここ数年の専門職と今回の応募の整合性がないのでは?と応募先から思われても仕方がない。書類選考が通ったこと自体がおかしい。

自分が求めるものは「①知名度のある会社の②正社員で年齢に見合った相応の役職」。これをメンタル疾患回復後、もう20年近く追い求めているが①②を同時に手に入れることができない。30代後半になってから転職先を確保せずに正社員から転落すれば、もう取り返しはつかない。40代ならまだ間に合うかと淡い期待を持ったが、もう二度と手に入らない。学生の友達、つまり同年齢はもう執行役員、部長、課長などの管理職なのだから。そもそも管理職に就きたいか、というとそうではない。他人との関係から偉そうにされたくない、偉そうにしたい、という不純な動機である。他人とは上手くやれるが、本心ではもう人間とはできるだけ関わりたくない。

その地位にいないことを情けないと思うが、一方でいまだにそこに戻ろうとしている自分の方がもっと情けないのではないか、とも思う。そもそもメンタル疾患を引き起こしたような長時間労働と過度のプレッシャーのかかる同じような仕事に戻ろうとする考えか自体が間違っているのではないか。何も成長していない。

話が飛ぶが、「72H」という番組がNHKで放送されている。毎回とある場所に72時間いて、そこを訪れる人へ質問する番組だ。この番組でインタビューされる人の特徴はは世に言う「勝ち組」「成功者」ではない。ここが「プロジェクトX」「プロフェッショナル」とは全く異なる。場所によっては、成功者と言う”道”から外れた人、”底辺”と位置付けられる職の人、他人に理解されないであろう趣味をもった人たちもでてくる。この番組が他と一線を画すところは芸能人がコメントしないところだ。(特番を除く)ワイプで芸能人がツッコミを入れたりフォローしたりしない。テレビに出ることを生業としない出演者たちがただ自分の道を生きている。テレビはその姿や発言を移すだけだ。

昔のようなとんね〇ずの石〇貴明やロン〇ンブーツの田〇淳が他人をバカにすることを”イジリ”と呼んでいた番組ではない。そういう番組を私は心底軽蔑するが、一方でそれを見ていた自分も同じようにバカにしていたから見ていたのではないか。同じような愚劣な存在であったことが、自分がバカにされる立場に落ちて初めてわかった。そんな私は軽蔑しても彼らを非難する資格はない。

でも思うのだ。

「負け組」に転落し、這い上がれないことが決まったことで、逆に他人に左右されない人生がこの先見えてくるのではないかと。

*1:親世代は非正規は定職扱いではない