けーせらーせらー

仕事、メンタル、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

夢を持て、という言葉の意味について

子どもの頃、「夢を持て」とよく言われた。

子どもの頃、「将来なりたい職業」という作文があった。そういうときに男子の場合は「プロ野球選手」「警察官」「医師」「学校の先生」という子どもが高く評価された。

私はひねくれ者なので「サラリーマン」「公務員」と答えたところ「夢がない」と散々だった。父親はサラリーマンだったのだが。

「警察官」「医師」「学校の先生」も「サラリーマン」「公務員」なのだが、どうやら大人にとって上記3つはこれらと一線を画すようだ。社会的な貢献をしているからだろうか?世の中にはあまり知られていない社会的貢献度の高い仕事などいくらでもある。

「野球」が好きではなかったし、野球をやっていなかったのになぜ「プロ野球選手」だけがもてはやされていた。

つまり夢=「他人から憧れる存在か、他人の役に立つ仕事」

大人の場合「実業家」「芸能人」「アスリート」「アーティスト」というのが評価される。正直、身内に何人かの個人経営者を持つ自分からしたらそんなに立派な者かと思ってしまう。確かに上手くいけばその辺のサラリーマンよりは稼げるが、休みも不安定だ。適性がある。トップに立てば、上司にへこへこしていなくてすむと思っているようだが、取引先には気を使っている。サラリーマンとそこまでの差はないと思う。

異性には、優秀な遺伝子を持つ者の遺伝子を残したいという生物としての本能に従っている、と本で読んだことがある。また、自分が苦労しなくとも経済的に恵まれた環境で生きることができるということも生存欲求にそっているともいえる。

そして、人に役立つ仕事は夢から消え去り、著名な企業にいるサラリーマン、公務員が評価される。

つまり「夢」=「金」「残したい遺伝子」「安定した生活」を他人に提供できる。

「金」が稼げない者は、とりたてて優秀でない「遺伝子」を必要としない仕事は社会貢献度が高くても「夢」扱いされない。

また、「自分が好きなことをやっていく」ということ、ともいわれてきて「自分の好きなこと」というのがよくわからない、特定できない、熱中できない、得意ではないことが好きな場合、これに当てはまらない。だから「自分探し」というのは「稼げるような自分が好きなこと」を見つけることと同義である。そして、自分が好きだといっても、「底辺」の職を言うと蔑まれる。

そんななか、仕事の「夢」という定義について、自分としての定義が変わってきた。夢、というのは自分が楽しい時間を過ごせているかどうか?「仕事は楽しいかね?」と問われて「はい」といえるかどうか。

長々と書いた「夢」というのは「他人から評価される」仕事であって、子供から大人になるにつれて他人の評価基準が変わっているだけである。

自分にとって楽しい仕事というのは、「他人にいいと評価される」仕事ではなく、「他人に評価されようがされまいが気にしないで本人の続けたい仕事」ではないか?

金を稼ぐのはあくまで生きるための手段。

お金が稼げるから、女子アナや芸能人と結婚できるから、という理由の「プロ野球選手」ではなく、「単に野球をして時間を過ごしたいから」という理由の方がしっくりくるような気がする。その結果、上記の結果を得られたらよいのではないか。勿論、モテたいという欲求に従うのもあり。

「芸能人」だってそうだ。芝居が好きならば、歌うのが好きならば、漫才落語が好きならば、そして弱った他人を攻め立てるのが好きならば、きっと楽しいのだろう。