けーせらーせらー

仕事、メンタル、労働法、転職、書評に関するエトセトラ

自分の身に起こった希〇念慮について

長らく記事にしてこなかった、自分の身に起こった「希〇念慮」について。

記事にしてこなかったのは、このテーマで書くと閲覧制限がかかるのではないかという危惧と、ニュースで芸能人の自〇が報道されていたことが続いていたことと、自分なりの整理ができなかったからである。

ただ、ブログを始めた時、一度は自分の身に起こった「希〇念慮」について記録に残しておきたくなった。そして、自〇について報道するマスコミに注文をつけたくなったからである。

以下、その時の記憶である。現在、「希〇念慮」や「メンタル不調」で苦しめられている方にとっては刺激が強すぎる内容になるかもしれない。フラッシュバックされる方もおられると思う。以降の文章は〇に文字を入れる。「続きを読む」と大量の改行をするので、ここでブラウザバックされたい。

 

 

 

 

 

私の身に希死念慮が発生したのは、今から約15年ぐらい前ちょうど、夏の北京オリンピックが終わった頃である。

私は当時、メンタル疾患で仕事を「休職」していた。その休職が1年以上も続いていたが、一向に状況が変化しなかった。当時「身体性表現障害」と診断はされていて、体にしびれがでたりほとんど1日中寝ていた。そんななか、会社の産業医に「入院」を勧められたのである。

私も一向に回復の兆しが見えないので、そのススメにのることにした。ただ、当時受診していた心療内科には入院施設がなく、また1人で生活していたので入院中の着替えなどが気がかりだった。そこで、その当時いた都道府県を離れ、親元の近く病院を検索し紹介状も頼んで入院したのである。

紹介状もなく突然お願いした入院先で、医師から今まで飲んでいた「薬」を全否定された。薬をすべて取り上げられたといってもよいかと思う。当時かなりの薬を服用しており、薬の多さが問題と指摘されたからである。一気に減らされて一日1錠ぐらいになったと思う。その医師は薬はメンタル疾患に対して基本的に処方しない方針をとっていこれまでの医師と反対の方針であった。

後から見れば、この薬の多さというのが問題であったことは数年先に別の病院で証明され、無事社会復帰することができたし、その後、薬の処方の多すぎることの問題が指摘されていることから、入院先の医師の方針は間違いではなかった。

ただし、急激な減薬には非常に問題があった。その反動は入院2日目で来た。体に変調をきたし、「文字が読めなくなり」「テレビや音楽も受け付けられず」「全身が痛くなり」そして「希死念慮」が発生したのである。

その後約3か月間ぐらいは、「毎日」希死念慮で朝10時から18時ごろまで苦しんだ。1日中ではなく、時間帯によって「希死念慮」がなぜか登場するのである。朝は元気であった。朝に散歩をして、朝の空気をすって気分よく部屋に戻っていた。しかし、10時ぐらいからどんどん自分の頭を何かにのっとられていく感覚になった。「希死念慮」の登場である。おおげさにいえば、別人格になった、と思ってくれてよいと思う。ちなみに朝に散歩すれば良くなるという説を唱える精神科医がいるが、かなり重症化した場合には効果がないケースもある。

それは「死にたい」「死んだ方がラクになる」というものではなかった。「自分は死ななければならない」という強い義務感、意志であった。

ただ当時の私は死ぬ方法がわからなかった。色々、ドラマとかで表現されている手法を試してみたが無理であった。体力も衰えていて動くこともできなかった。

なんとか「飛び降り」を試みようとしたが、実行できなかった。なぜか「飛び降り」をしようと高いビルから地面をみると「死の恐怖」が頭にでてくるのである。後、入院先で実際に飛び降り自殺を図り失敗し後遺症が残った人と知り合いになりその時のことを聞かされていたのも大きかった。「死ななければならない」義務と「失敗した時のこと」と「死の恐怖」この意識に苦しめられ、身動きもできず、何度もビルの屋上で嗚咽を繰り返した。

私はこの時、赤んぼうや幼児の時を除いて、一番泣いたと思う。なぜ自分がこのような目に合わなければならぬ、ただ仕事を精一杯やったことの罰にしてはあまりにも酷い仕打ちだと泣いていた。こんな仕打ちを受けてまで、生き続けようという気力も将来の希望もなかった。

今でも「死んではいけない」ときれいごとだけを言っている人は多分、この苦しみを味わったことがない人だと思っている。

そして、なぜか太陽が沈み、暗くなったら「希死念慮」がなくなった。普段の自分に戻ったのである。太陽の光に浴びることは健康に良いだろうが、自分の「希死念慮」にとっては太陽は最大の敵であった。なるべく、太陽の出ている間は寝ていることにしていた。

また私は、この時朝10時から18時までの間、家族・友人・恋人・会社の同僚に「死」についてメールを送り続けた。某中古車販売メーカの副社長もかわいいと思えるぐらいの文章だった。もはやホラーである。その結果、私は友人と恋人と仕事、すべて失った。それはそうだ、そんなメールを4か月も送ったら受け取った方もおかしくなってしまう。巻き込まれないように縁が切れた。家族を失わなかっただけましと思った方がよい。後になって家族もかなり参ってしまっていたと聞いた。当時着ていた服はその時のことを思い出すからといわれてすべて処分している。

そんな毎日であったが、3か月ぐらいたってから「希死念慮」から徐々に薄らいでいった。その解決策は、新たな薬が処方されたことであった。その薬によって「希死念慮」はかなりの頻度で抑えられるようになった。薬の名称は今飲んでいないので覚えていないが、思考回路がとまった感じになるのである。思考がとまれば希死念慮も収まる、といった感じであった。「希死念慮」がでてきたら、ナースコールをして処方してもらい、落ち着き、また発生したらナースコールをし、といった具合である。

入院から約4か月、この薬で「希死念慮」を抑えることができ、退院することとなった。

以上が私の「希死念慮」の顛末である。なぜこんなことを書いたかというと、自ら「死」を選んだ人の中には、きっと私のように「死」を脳みそが勝手に選んだ状態になった人が一定数いるのではないかと思う。しかも私のなかにあった「死への恐怖」を上回る「希死念慮」が。

だから、「自死」を選んだ人のその結果を見て、テレビであれこれ原因を分析したり、「死んではいけない」とか「相談してほしい」とかいうアドバイスも、当事者を悪く言ったり、当事者の周りを悪く言っても、すべての人にその対処でなんとかなるわけではない、と私は思っている。勿論助かる人もいるだろうが、「脳」が「死」を選択させようとしている、としかいいようがない私のような人もいると思うからである。

今「希死念慮」に苦しんでいる人へ私が言えることはひとつ。私も希死念慮に苦しんだが、数か月後にはなくなりました。脳が悪さをしている可能性があります。そして、その「希死念慮」は何らかのきっかけで過ぎ去る可能性があります。これは希死念慮が過ぎ去った経験も持つ人間から伝えられることです。

ちなみに私は「希死念慮」はもう10数年発生していない。正直どんな感じだったかは記憶に残っていない。自殺しようとした時に死の恐怖である程度正常に返った時の記憶だけが残っている。呪われていた、とりつかれていた、というのはこういうことをいうのかもしれない。今でも落ち込んだりするが、「死」を積極的に選ぼうとはしない。正直あんな目にあってまでこの世で生き残りたいとは思っていないが、死にたいとも思っていない。

あと、この時のメールで友人たちに多大な迷惑をかけてしまったことから、この時以降、プライベートで知り合った人とはメールやラインを交換しあったことはない。仕事上の業務連絡だけである。

尚、私が症状が一切なくとも、服薬を辞めていないのは、医師の判断もあるが、その時の減薬の恐怖が残っているからである。15年たった今でも薬が切れることの恐怖は消えない。

ただ、「希死念慮」に苦しめられた時、私に自死のための知識があったならば、死を選んだかもしれない。だからこそ、「自死」をされた芸能人のニュースをするべきではないと思っている。ほんの一時に発生した「希死念慮」を実行に移さないためにも、「自死」を決行できる後押しになりかねない情報をマスコミは呈示するべきではないと思っている。